TRANSLATE

AD | all

第250号  マタイの福音書11:15-27

「神の子ども」として「永遠のいのち」にあずかるとは、どういうことですか? 

人生には、「神の子ども」か「悪魔の子ども」かのいずれかの人生しかない…
あなたはどちらの人生を選んでいますか?

耳のある者は聞きなさい。
この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」
それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああ、コラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。     マタイ11:15-27

昨今、世界中で起こっていることは、先行き危機感や不安をあおるようなことばかりです。この七月は、ドイツ、米国で銃乱射事件が相次ぎ、バングラデシュ、フランスでは、イスラム過激派によるテロ事件、トルコでは、7月16日、クーデター未遂が勃発し、多くの死傷者が出ました。
ドイツでは、ミュンヘンのショッピングセンターでの銃乱射事件に続き、七月第三週から第四週にかけての一週間だけでも南部バイエルン州界隈で四回も銃による殺傷事件が起こったことが報道されました。
米国では、六月に起こったフロリダ州オーランドのナイトクラブで四十九人殺害という米国史上最悪の銃乱射事件の直後、再び、フロリダ州のナイトクラブで十八人死傷の事件が起きました。
7月1日にバングラデシュの首都ダッカのレストランで起こったテロ事件では、多くの邦人が犠牲になり、14日には、フランス南部のニースで、革命記念日のイベント会場が狙われ、遊歩道をトラックが2kmに亘って暴走し、八十四人死亡という大テロ事件が起こりました。
26日には、銃規制が厳しく安全とみなされていた日本で、刃物によって、十九人殺害、二十六人重軽傷という信じられないような凶悪な殺傷事件が起こりました。
神奈川県相模原市の知的障害者施設で起こった元職員によるこの事件は、この若者が「重度の障害者は全員消えるべきだ」との恐ろしい偏見を持って計画的な犯行に及んだこと、大麻を使用し、ある時期から突然人が変わったようになったという情報から、人の行動の背後での悪魔の躍動を如実に物語っています。

さらに、七月にスマートフォン向けゲームアプリの配信が米国、豪州、日本で始まって以降、ゲームへの熱狂で多くの事故、事件が世界中で続出しています。

人が制御できない衝動に駆られ、物事に没頭し、歯止めが効かない状態に陥るとしたら、聖書は、それが善悪に関わらず、神以外の霊によって支配されている状態であることを教えています。神は、人類最初の殺人者となったカインに、カインが犯行に及ぶ前、
「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4:6-7)
と警告されました。自分の思うようにならないことで神に憤り、心の中にアベル殺害を抱いていたカインに神は、最初からの犯罪者であり、神から離れる者をとりこにしようと待ち伏せしている「悪魔」に心を委ねる者に決してなってはいけないこと、むしろ、悪魔の誘惑に打ち勝たなければならないことを、前もって諭されたのでした。

キリストの愛弟子ヨハネは、人の一生がサタンとの戦いであること、人には、「神の子ども」「悪魔の子ども」かのいずれかの人生しかないこと、この世が好む「中道」は神の掟にはないことを、『ヨハネの手紙第一』三章で明確に教えています。

ヨハネは「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです」と語り、神からの霊は「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」で、それ以外はすべて「反キリストの霊」(ヨハネ第一4:3)であると明言しました。聖書はこのように明確にすべての人が真の神からの霊を受けて生きるべきであることを語り、それ以外の霊はすべて悪魔の支配下にあることを教えています。神によって造られた人がこのように生きることは必須で、「神の子ども」として生きることは人の側の選択ではなく、神のご命令です。神の言葉、聖書は日本中どこでも入手でき、真理を求める人たちはみなこの御言葉を通して、神に出会うことができるのです。
しかし、今日どれほど多くの人たちが神を求めて生きているでしょうか。思い起こされるのは、冒頭に引用したキリストのメッセージです。

キリストが名を挙げられたガリラヤ湖の北の町々、コラジンやベツサイダは今日、廃墟と化しているようですが、旧約時代から聖書に登場するツロ、シドン、ソドムは異邦人の町々でした。キリストは、宣教の本拠地とされたカペナウム近辺のコラジンやベツサイダで多くの力ある働きをされ、住民は大きな栄光にあずかったのでした。しかし、キリストの驚くべきわざを見、恵みにあずかりながらも、人々は批判こそすれ、メッセージに真剣に耳を傾け、自ら悔い改めて、神の救いを受けようとはしませんでした。
もしキリストがコラジンやベツサイダでなされた働きがツロやシドンやソドムでなされたなら、ソドムの人々でさえ悔い改めて救いを得たに違いない、したがって、世の終わりには、キリストの福音の光に照らされ、多くの恵みにあずかりながら神の招きに応答しなかったコラジンやベツサイダやカペナウムは、福音の光に照らされなかったツロやシドンやソドムより大きな裁きを受けることになるであろうと、キリストは聞く耳のないご自分の民に厳しく警告されたのでした。

神の創造の秩序や掟が無視され、人道主義、博愛主義の名の下で、この世の掟が人の望む方向にどんどん書き換えられ、ゆがめられた新奇な基準で人を評価する傾向に拍車がかかっている昨今、この文脈でのキリストの締めくくりのお言葉は、注目に値します。
キリストが神の御旨にかない、永遠の生命を得ている者として挙げられたのは、この世が評価せず、軽視する幼子や幼子の知恵にしか達さない弱者であることを明確にされたからです。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と、キリストは、自分が無力であることを知り、神に依存する者だけが救いにあずかる者であることを明らかにされたのです。

全人類の救いのために必要な、生ける神の啓示をすべて網羅している聖書は、時空を超えた真理を告げている唯一の書です。今、キリスト信仰に対する迫害のない日本では、この聖書を通してだれにでも神を知る道が開かれています。ユダヤ人やキリスト者に対する迫害が米国やヨーロッパをも含めて世界的に拡大している世界情勢から、また、世の中が非常に極悪になっている事実から、信仰の自由が失われるときは予想以上に近づいているのかもしれません。
すべての日本人が神の警告を真剣に受け止め、決断しなければならないときはもう来ています。


キリストの宣教命令に従って過去二千年間、福音を伝えるいろいろな試みがされてきましたが、特に世の終わりには、神の奥義、―イエス・キリストによる全人類の救い― が明らかにされ、人々の探索によって「真理」が明らかにされることを聖書は宣言しています。
フルダミニストリーでは、聖書が証しする神の言葉の正しさを、人間の学問「科学」が発見し始めていることを少しでも多くの方々に知っていただくため、五月から『生きるを考える』集いを定期的に開いています。
この世に生まれる者すべてに与えられる生命、―身体の死に向かってのこの世の人生― と、神とともに生きる永遠の生命、―不死の人生― とがあることを聖書は語っていますが、この「永遠」の概念を理解することは実際には非常に難しいのです。七月の集いで、数学者のジョン・パーカー師は、数学的概念の「無限」の理解を聖書の語る「永遠」の解釈へと発展させ、永遠の生命にあずかることの意味に大きな洞察を与えてくださいました。
永遠とは果てしなく続く日々のことと私たちは考え、不死に挑戦する現代医科学はまさにそのように捉えていますが、果たして、キリストが約束された「永遠のいのち」とはそのような時間的、空間的永続性に言及しているものなのでしょうか。
パーカー師の解説を次のようにまとめてみました。

無限を見つけるためには、数学的に数を繰り返し増やしていく方法と、反対にどんどん減らしていく方法が考えられます。思考体験の一例として提示されたのは、「カントール集合」という無限追求の試みでした。
まず、ある一定の長さの線分を三分の一に分け、真ん中の三分の一の線分を除去し、左側と右側に残った線分をさらに三分の一に分け、各々の真ん中を除去し、さらに残った線分を三等分し、真ん中を除去し…という具合に同じ選択を繰り返していくのです。この結果がどうなるかは難しい数式を用いなくても、分割、除去を繰り返していくうちに、果てしなく零に近づくことは明らかです。カントール集合は数えきれないほど無限であるにもかかわらず、その長さは「0」、すなわち、無限の結果は零ということを暗示しているのです。

有限の人が理解を越えた無限に挑戦するとき、この逆説が生じる、と考えるとき、死ぬことが定められた人が理解を越えた不死に挑戦することの愚かさが見えてくるのです。無限の神を知るため、また、永遠の生命を理解するために、有限の理由づけをするとしたら、その結果得られるものは間違い、混乱です。
なまじ知識、知恵があると思う者「賢い者や知恵のある者」はみな、この罠に陥りますが、「幼子たち」は理由づけなく霊によって創り主なる神を理解することができます。
聖書の語る永遠とは時空の延長という概念ではなく、「神とともにいる」一瞬のことなのです。

中でも、ジョン・ニュートンの作詞した有名な讃美歌「アメイジング・グレイス」の最後の歌詞に、この永遠が正しく洞察されていることは大きな発見でした。残念ながら邦訳者は、この箇所をこの世的な概念でしか翻訳していませんが、ジョン・ニュートンは永遠の概念を「神とともにいる世、神の国に何万年いようと、最初の一瞬と全く変わらない、同じである」として、神と共なる永遠の賛美を一瞬のことになぞらえているのです。