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第239号 エペソ人への手紙1:1-14

「三位一体の神」は聖書に裏づけられた真理、キリスト信仰の真髄

聖書の語る真の福音、神の「みこころの奥義」は、この教理以外では、説明することはできない

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
エペソ人への手紙1:1-14

人は、創造者なる真の神との親密な関係に生きるように創造されたので、最初の人類が神への反逆によって、神から引き離されて以来、人は自らの内に宿る罪、罪悪感からの解放、救いのため、神との関係の修復を必然的に求めるようになりました。同時に、人が真の神に立ち返ることを妨害する神の敵サタンは、人がさまざまな宗教を生み出すことを助けてきました。人の作りあげた宗教は人が罪悪感から逃れるための手段となり、人間史を通して、多くの人々が宗教行事、活動に従事してきました。今日も多くの宗教が存在し、人々は宗教の奴隷となり、抜け出すことができず、混乱に陥っています。背後にサタンの脅し、だましがあるからです。この世の宗教はさまざまな神々をまつりあげ、一神教から多神教まで、偶像の神々で満ちています。

人々はだれしも自分たちが奉り、拝んでいる神々こそ本当の神であると信じていますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。伝承、迷信に加え、多分に、体験、感情、気分など主観的な要因が信念につながっているようですが、唯一真の神はただ一人。
間違っても人が偽りの神々や偶像を拝むことがないように、神は、ご自分がどのような神であるかを、啓示を通して明確に語られました。根絶の危機に何度もさらされながら今日まで多くの写本が残されている「旧新約両聖書」こそ、この真の神がユダヤ人を通して全人類に与えられた、この世に類を見ない「啓示の書」です。神の啓示は人間史を通して選びの民、選びの器に、千六百年にも亘って漸次に告げられたのでしたが、その一貫性は驚くべきで、聖書が紛れもなく、全知全能、永遠不変の、神の霊感によって書かれた歴史書であり、預言書であることを証ししています。
聖書に記されている真の神がどのような方であるかは、人に対する神独自のアプローチから説明する必要があり、一言では表現しきれないため、聖書が語る神を一言に的確に集約した「三位一体」の神という表現が生まれました。


「三位一体」の教理に関しては、この用語が聖書の中に登場しないことで議論の的にしているグループもありますが、確かにこの用語は聖書の文脈の中には登場しませんが、聖書の複雑な神を集約し、神の啓示に根づいた聖書を正しく反映した用語です。この世を贖うために父が子をこの世に送り、子がご自分の生命を贖い代にしてこの世を救い、地上での役割を終えられた後、聖霊が神の民を完成へと導くために送られ、やがて、御使いをも含め、神に反逆した者たちがすべて裁かれ、御子が全世界を永久に支配する時代が到来し、
「神がすべてにおいてすべてになられる」(コリント人第一15:28)
という「みこころの奥義」、聖書が語るキリストの福音は、この教理以外では説明できないのです。
サタンの罠に陥って神から離れ、罪のとりことなった全人類の救いのために、神ご自身がご介入された愛の手段が「三位一体」の教理です。この教理は、全聖書を貫通するキリスト信仰の真髄で、新約聖書では、コリント人への手紙、エペソ人への手紙、ヨハネの福音書、ローマ人への手紙、ヘブル語(旧約)聖書では、申命記、箴言、エゼキエル書をはじめ、至る所に反映されています。今月は『エペソ人への手紙』を通して、真の神のメッセージに耳を傾けることにしましょう。

『エペソ人への手紙』は、パウロの他の書簡とは異なり、特に読者や事例を特定することなく、すべてのキリスト者に宛てた、今日のキリスト者に向けても語られている、「三位一体」の教理を解説している書簡です。
冒頭に引用した聖句には、すべての霊的祝福の源である「父なる神」、これらの祝福が信じる者に与えられるための手段として人類に関わってくださった「子なる神」キリスト、救いの保障として、信じる者一人ひとりに与えられた「聖霊なる神」、三位格の神の人類救済のための御働きが集約して語られています。

パウロにとって礼拝は「神の栄光をほめたたえる」ことで、父、子、聖霊なる三位格の神に向けられた賛美が、6、12、14節での三回の繰り返しで強調されています。この三回の句で区切られた文節には、唯一真の、しかし、この世に三つの異なった顕れで関わっておられる、三位格の神「父」に対し、「子」に対し、「聖霊」に対して、賛美が表明されています。聖書に明確に語られている神とその救いを信じる者、キリスト者が礼拝するとき、「三位一体」の教理に集約された真理は、自ずと礼拝に反映され、父、子、聖霊なる神への賛美が、個々の信者の信仰表明になるのです。それでは、冒頭の聖句を、順を追って考察することにしましょう。

まず、「父」を通して、神の御目的が顕されます。パウロは神を、主イエス・キリストの父として祝福し、神に対するキリスト者のあるべき姿勢を明確に表現しています。ヘブル語聖書では、「父」という言葉が神に対して用いられたのは十五回だけで、神はすべてのものの父、特にイスラエルの父、あるいは、イスラエルの王としては語られましたが、神が父として祝福されたことは一度もありませんでした。「父」という言葉は、神の世話や、尊敬、服従を受ける神の権利に言及して用いられることはあっても、個々人との関係を表現するのに用いられることはなかったのでした。
このように、神は最初は「天の父」として、礼拝者から離れたところにおられる方でしたが、キリストを通して初めて、身近な方として知られるようになったのでした。

長い間隠されてきた神の御目的、「みこころの奥義」は今や、キリストの内住の御霊によって世に明らかにされましたが、パウロは、ローマ人16:25でもこの奥義に言及し、コロサイ人1:26-27では、
「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」
と語り、冒頭のエペソ人へのくだりでは、この奥義が、
「時がついに満ちて、実現し…いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです」
と、神の真理、―宇宙のさまざまな要素、次元を通して見られる神の慈愛と御目的― が、いかにキリストご自身、その教え、言動に集約されているかが示されています。すべてのことがキリストを指し示しており、キリストは全創造の中心で、神のご計画は、被造物のすべてのわざがキリストを中心になされることなのです。

救いに関してパウロは、すべて選ばれている者は父の御許に来る、すなわち、救いの選びは神の絶対的な主権にあることを説き、
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」
と語りました。

このことは、救いが根本的に私たち自身の選びではなく、ただ神の選びに依存することを語っているので、キリストを信じ、従う者は決して救いから漏れることがないことの確証でもあるのです。私たちの永久の救いが、自分たちの選び、奉仕、献身する能力、努力、達成に依存するといったこの世の宗教的な考えは聖書の教えではなく、キリストによる無償の救いに関する限り、そのような考え、示唆は偽りの教えなのです。
パウロの教えの焦点は明らかに神の選びで、人の側の信仰の力、達成度、献身度を誇る余地は全くないのです。全人類を救いたいとの神の愛は、個々人の罪への応答としてとか、個々人の善への応答としてというように、二次的な経緯で生み出されたものではなく、世が始まる前からの神の自由意志によるものでした。

キリストの血による贖いが、決して安価なものではないことに思いを馳せた四世紀の神学者アレクサンドリアのアタナシオスは、神が、ただ悔い改めるようにと罪人を招かれたのではなく、御子を犠牲にされたということは、血を流す以外に人を罪から解放するすべがないからであったと指摘した最初の教父の一人でした。
人の根本的な問題は、単に神への不従順ではなく、罪が霊的堕落と死をもたらすということ、すなわち、問題は外的なことではなく、人自身の内的崩壊の危険でした。人の内的状態が、有罪から無罪に変えられるには、罪のないキリストの聖い血による聖め以外になかったのでした。
このように、贖いは、今日もすべての人々の現実問題なのです。人は周りの人たちの死を目撃することで、死を外側から知ることはできますが、人生の終わりに至るまでは、死を内側から知ることはできません。神だけが、キリストの死によって、死を内側から知っておられる方で、父なる神は、信じる者を永久に生かすために、犠牲を払ってくださったのでした。

「御国を受け継ぐ者」となるということは、ちょうど、一世紀半ばにローマ皇帝クラウディウスがネロを養子に迎え、王位を継承させたように、キリストを信じる者たちはみな、神の国を継承する権利を授かり、最終的な贖いが完成するときまで、聖霊がその証印を各自に押してくださるのです。
すべての人に対する神の愛と御旨は、特にこの世で住む家や家族や親のいない人たち、この世の圧政下で苦しんでいる人たちに、大きな恵みをもたらします。彼らはキリストを信じる信仰によって、永久の神の大家族に組み入れられるのです。