「神のしるし」と「サタンのしるし」
今年の教会暦のペンテコステは、六月八日、日曜日。ほぼ二千年前、エルサレムで起こった「キリストを告白する者の群れ、教会誕生」と「聖霊による封印」の出来事を覚えるときが今年も巡ってきた。
「聖霊による封印」は、イエス・キリストを救い主として信仰告白した者に、「神のしるし」として与えられたのであった。
ヘブル語(旧約)聖書も新約聖書も、信じる者たちに与えられる「しるし」と、神を信じず、この世の体制を追従する者たちに与えられる「しるし」とを明確に区別している。
前者が、この世の次元を超えた永久の生命を保証する「しるし」であるのに対し、後者は、人間によるユートピアを達成しようと、限られたこの世に執着する者たちがしがみつく「サタンの刻印」である…
そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた……彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない』と言ったからだ。だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行いを返す。」
エゼキエル書9:3-10
五月二十日、主にある一兄弟から、スーダン国のキリスト教徒メリアム・イェハ・イブラヒム姉妹のための嘆願書が送られてきました。「市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR、日本での略称は「自由権規約、B規約」)」(1966年に国際連合総会で採択された、人権の国際的な保障に関する多数国間条約)の締結国スーダン政府に対し、当国で不当に死刑宣告されたイブラヒム姉妹の信仰の自由権を尊重し、無条件に直ちに釈放するようにとの嘆願書提出を、各国の政府に訴えてほしいとの内容でした。同日、フォックスニュース、CNN、デイリー・テレグラフほか多くのマスコミが、この問題を取りあげていました。キリスト教徒迫害が中東をはじめ世界的に広がっている今日、この嘆願が世界各国政府の訴えによって裁定されるか否かは、この世にまだ良心が残されているかどうか、掟に照らして公義が行われるかどうかを知るうえで重大です。
エジプトの南に隣接するスーダンは、多くの死傷者が出た市民戦争の結果、「スーダン」と「南スーダン」の二地域に分裂してまだ日が浅い国です。この分裂は部族間ではなく、イスラム教徒とキリスト教徒との間で起こり、後者が南に移住し、新たなクリスチャン国家が誕生しました。しかし、この南スーダンはイスラエルの地理的状況と同じように、イスラム教国に取り囲まれ、市民戦争後も、国境地帯での小競り合いと憎み合いが依然として続いています。日本のマスコミは言うに及ばず、世界的にもなぜかマスコミはこのことをほとんど伝えておらず、イスラム教国でのキリスト教徒の迫害に関して、沈黙する傾向があるようです。
四月十四日にも、ナイジェリアで二百二十三人の女子生徒がイスラム過激派組織「ボコ・ハラム」の武装集団に拉致され、人質として隠された事件が報道され、国際的な憤りと非難の声が高まりました。これら女子生徒たちのほとんどはクリスチャンで、イスラム教に回心するか、拒絶するかが迫られ、その結果は公表されませんでしたが、イスラム教の掟に照らせば、拒絶の結果は「死刑」です。米、英、仏国にイスラエルも協力して、衛星や有人、無人の偵察機による捜索が続けられてきましたが、五月末になってやっとナイジェリアの軍最高責任者が、公にはできないが場所を特定したと明るい見通しを報道し、成り行きが見守られています。
メリアム・イェハ・イブラヒム姉妹の夫、米国市民でクリスチャンのダニエル・ワニ兄弟は、二月十七日に、二十七歳で妊娠八ヶ月の姉妹と二十箇月の息子が鎖につながれ監獄に入れられたこと、キリスト信仰を拒絶しない限り、死刑が宣告されたことを、今世論に訴えています。彼女は、ハルトゥームの裁判所で、イスラム教の法律「シャリーア」により、背信、姦淫罪に問われましたが、彼女の父がイスラム教徒であるので彼女もイスラム教徒であり、イスラム教徒ではないワニ兄弟との結婚は違法であるというのが、裁判所の主張です。イブラヒム姉妹は、エチオピアの正統派キリスト教徒の母親によって育てられ、彼女が幼いとき父親が家を出たので、自分はキリスト教しか知らないと弁明したのですが、キリストを拒絶しなかったので、五月十一日に百回のむち打ち刑と絞首刑が宣告されたのでした。これまでにも何人かの者に同じような判決が下されたのですが、みなイスラム教に回心することで死刑を免れたのでした。マスコミは、暴力と宗教の切り離せない関係を意識的に避けて報道するきらいがありますが、これは世界中至るところで起こっている現実問題なのです。
ハルトゥームの裁判所は、イブラヒム姉妹に妊娠中の子が生まれ、ある授乳期間が与えられた後、刑が執行されると語り、「死刑は確定したが最終判決ではない」という、希望を与えるようなあいまいな声明も出しており、非人道的暴力行為に対する高まる国際的憤慨が功を奏している、と見る向きもあるようです。
今年の教会暦のペンテコステは、六月八日の日曜日です。
ほぼ二千年前のユダヤ暦の「シバンの月の六日」、エルサレムに集められていたキリストを信じる者たちの群れに聖霊が下り、教会、―ナザレ人イエス・キリストを、ヘブル語(旧約)聖書が約束し、指し示してきたユダヤ人の王、メシヤ(救い主)として受け入れ、信仰告白した者たちの群れ―が誕生しました。このとき各自に下った聖霊は、キリストによって堅く結ばれた群れの一員、兄弟姉妹であることの「神の確認の印」でした。パウロはこのことを
「神の約束はことごとく、この方(イエス・キリスト)において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(コリント人第二1:20-22、下線付加)
と語っています。
この世はさまざまな宗教の神々に満ちていますが、キリストを通しての唯一真の神「父なる神」に属する者には、旧約時代から神のしるしが押されていました。冒頭に引用したエゼキエル書のくだりは、神が背信に陥ったエルサレムに、ついに裁きを下される光景を描写したものです。破壊する武器を手にした六人の男に加えて、書記の筆入れを持ち、亜麻布を着た祭司のようないでたちの者が一人遣わされ、まず、町の中の裁きを免れることになる者たちの額にしるしがつけられます。神の都エルサレムでの背信を嘆き、世俗の勢力の横暴ぶり、罪悪に心を痛め、必死に神に執り成していたに違いない少数派の弱い者たちが、神の民として守られるため、取り分けられたのでした。ここで「しるし」に用いられているヘブル語は‘ הַתָו(ハ・タヴ)’で、直訳では、‘そのתו (タヴ)’、すなわち、ヘブル語アルファベットの最後の文字 ‘ת (タヴ)’への直接の言及です。ヘブル語では、各アルファベットに意味があり、‘タヴ’ は、「究極の真理、創造から贖いまでの完全な輪」を意味するとされています。十字架上で贖いの死を遂げられ、「完了した」と言われたキリストのお言葉は、まさにこの ‘タヴ’ だったのです。しかも興味深いことに、エゼキエルの時代には、この文字は「✘」、「+」、あるいは、「✝」と表記されたのでした。旧約の時代、人々の額につけられた守り、救いのしるしがこのように十字架を象徴する形であったことは、天地創造からキリストによる再創造までの神のご計画が、創造者の神意によってすべての初めに考案されたものであること、神のご計画が最初から最後まで一貫していることを物語っている数多くの例証のうちの一つなのです(『一人で学べるエゼキエル書』Ⅰ(5)9章参照)。
世の終わりが預言されている『黙示録(キリストの啓示)』にも、神が守られる人々には、「印」が押されることが記されています。人の目には見えなくても、この世に神の裁きを執行する御使いたちには明確に分かる、印がつけられるのです。このことを銘記しておくことは、キリストを信仰告白した者に保証として聖霊が内住されること、―信徒に与えられる神のしるし―と同様、重大なことです。冒頭で言及したスーダン国のイブラヒム姉妹をはじめ、多くのキリスト者がすでに体験しているように、この世を掌握した政府が、全地の人々にキリスト(神)か、獣(サタン)かの選択を迫る「とき」が必ず訪れるからです。『黙示録』は、神の「印」だけでなく、獣の「刻印」にも言及しています(『一人で学べるキリストの啓示・ヨハネの黙示録の預言』【7】9章参照)が、ヘブル語聖書の最初の書『創世記』にも印は登場します。4章に登場する、アダムとエバの長子カインは、神の御旨を行い、神に受け入れられた弟アベルを憎み、殺害し、背信の人生を歩みだします。そこで主は、農夫であったカインに
「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地の上をさまよい歩くさすらい人となる」
と、神に背を向ける者の滅びに向かう呪いの人生を告知されました。自分の咎が大きすぎて自分には担いきれない、神の守りから離れては自分は生きることができない、と訴えたカインに主は憐れみ深くも、だれも彼を殺すことがないように、「一つのしるし」(創世記4:15)を与えられました。仲間から社会ののけ者とみなされ、さげすまれるようになったカインに神の守りが約束されたのでした。
果たしてカインに与えられたしるしとは、どのようなしるしだったのでしょうか。神の守りという点では、エゼキエル書に記されているしるしと変わらないように見えるのですが、用いられているヘブル語から、それは、究極の真理、完全を象徴する‘タヴ’とは正反対のしるしでした。用いられている‘אוֹת(オト)’は、‘תו(タヴ)’と比べると、アルファベットを正反対につづった語で、真理の逆、おそらく「ゆがめられた真理」とも解釈できる語なのです。‘タヴ’に十字架、真の救い主キリストによる贖いの完成が象徴されているとすれば、その反対の‘オト’には、反十字架(十字架の異形)、暗闇の力と結託した卓越した人間政府による地上の楽園達成が象徴されていると推し測ることができるかもしれません。十字架の異形と言えば、ナチスがシンボルに用いた太陽神崇拝の象徴「卐(スワスティカ)」や、仏教、ヒンズー教、ゾロアスタアー教などが用いている象徴の「卍(右まんじ)」があります。ヒトラーのイデオロギー、ナチズムは、神がイスラエルに約束された地(この世)の相続権をアーリア人種(ドイツ民族)のものにすることをもくろんだ国粋主義、ドイツ民族を生物学的、遺伝学的に卓越していると信じる人種主義で、メシヤの千年期に該当する「第三帝国」を築きあげることを夢見たものでした。神から離れ、自分の力でこの世で生きながらえることに祝福を見いだそうとするカインのカルトは、形と名こそ変え、今日に至るまで存続しているようですが、この精神は、終末末期の獣の刻印に象徴されるこの世への執着、この世にユートピアをもたらすと豪語する世界的指導者への追従の道、真の神への背信そのものなのです。