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第222号 マルコの福音書14:32-64:

真の大祭司イエス・キリストによる罪の贖い

ーキリストが十字架上で達成された最後にして永久の罪の贖いは、「罪人」、全人類の唯一の救いの手段ー 
 
ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり、死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ……また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた……イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか……時が来ました……見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます……わたしを裏切る者が近づきました。」……
彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た……イエスに対する偽証をした者は多かった……証言は一致しなかった……大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです……すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
マルコの福音書14:32-64
 
  毎年、受難週が近づくと、イエス・キリストの人類贖いの死に至る史実をさまざまな角度から記述した四福音書の通読が促され、聖霊のお働きによって新しい洞察が与えられます。神の始められることや神の人間史へのご介入にはいつも驚き、意外性があり、神の知恵がこの世のものとはその本質が根本的に違っていることを知らされますが、今年も新たな思いが与えられたように思います。
 
  キリストの地上での主要な講話の最後は、おそらくジョン・マルコの家だったと思われる「二階の広間」で、特に十一弟子だけに語られた別れの説教です。ヨハネの福音書14章から17章に詳細に記されているこの最後の晩餐時のキリストの別れのメッセージは、ご自身の死、甦り、昇天、天上の「神の大能の右の座」での執り成しによって始まるご自分と弟子たち、信徒たちとの新しい関係に言及する預言的メッセージでした。ご自分の十字架による死刑を目前に、残される弟子たちのことを顧みて語られたキリストのお言葉の一つ一つは、まさに愛の実践でした。最後の晩餐が始まるとき、キリストは弟子たちの足を洗い、他人に仕えるという従順の行為が愛の実践であることの模範を示され、
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)
と教えられました。実際にはこの新約のご命令は新たに教えられたことではなく、レビ記19:18に記され、弟子たちがすでに聞いていた「古い命令」でした。ヨハネは後に

愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。(ヨハネ第一2:7-8)
と語り、互いに愛し合うことがいかに重要であるかを教え、ヤコブはこの新約のご命令を「最高の律法」(ヤコブ2:8)と呼びました。
 
キリストの最後のメッセージは、ヨハネの福音書17章の「至聖所の祈り」とも呼ばれる、記録されているキリストの祈りの中で最長の執り成しの祈りです。キリストが父に向かって祈られた、まさに幕屋(神殿)の垂れ幕の背後、至聖所での真の大祭司キリストの祈りから、私たちは、奇しくもキリストが個人的ニーズと願望を父にどのように訴えられたかを垣間見ることができるのです。この祈りの焦点は父で、「子によって父が栄光を受けること」がキリストのすべての御働きの理由ですが、そのために、キリストは七つの特別な要求を父に願われました。1.子が栄光を受けること、2.キリストが父の御許におられたときの、あの最初の栄光の復興、3.キリストの弟子たちと、未来の信徒らの守り、4.キリストを信じる信徒らの聖め(聖化)、5.信徒らのキリストとの一体化、6.信徒らの栄光化、7.キリストによる救いを全世界が知るようになること、でした。この祈りの中で唯一の個人的願望は、5節の「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」で、残りはすべて、「罪人」の救いのための執り成しでした。ここでキリストは「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(4節、下線付加)と言われたとき、「完全に支払われた」の意のギリシャ語動詞を用いられたことから、ご自分がいけにえとなることにより神の御旨が達成されることを熟知しておられたことがうかがえます。
 
これらのメッセージを語られた後、キリストは弟子たちとともに外に出て、油絞りの意の「ゲツセマネ」、オリーブの木の園に向かい、特にキリストに最も近しかった三人の弟子ペテロ、ヤコブ、ヨハネには、キリストの近くでともに祈ることが求められました。しかし、「二階の広間」で祈りの重要性を教えられたばかりであったにもかかわらず、三人は肉の要求に負け、執り成すどころか、眠りこけてしまったのでした。このときキリストは「十字架以外に人が救われる道があるなら、そのようにしてください。しかし、父の御旨が成りますように」と、三度同じ祈りを繰り返され、父に懇願されたのでした。もし人が天の御国に入るために、別の道があったなら、キリストの祈り、―「わたしを十字架上で死なせることによって人類に救いの道を開く、父の御旨が成りますように!」― に父は答えられなかったでしょう。すなわち、父はキリストを死なせることはなさらないで、十字架以外に救いの道があることを明らかにされたに違いないのです。十字架以外にも人類が罪から救われる道があるのに、キリストが十字架刑で亡くなられたとしたら、キリストの死は全く無意味なこと、茶番劇に終わってしまったことでしょう。しかし、父は、キリストを十字架上で死なせることによって、それ以外に、人が救われる道がないことを明らかされたのです。昨今、このキリスト信仰の最重要な教理、―キリストのみによる排他的な救い― が、世界の平和、友好的な人間関係を強調、優先するクリスチャンの間では語られなくなってきていますが、初代教会の使徒たちはこのことを

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)、 
あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください……信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。(使徒の働き13:38-39)
と、死も牢も迫害をも恐れず、明言したのでした。ゲツセマネの園での、あまりにも罪深いがゆえに不可能としか考えられなかった人類の救いを全身に負われたキリストの苦悩を、医者ルカは「キリストは心痛のあまり油を絞り出すように、血の汗を流された」と表現しました(ルカ22:44)が、この症状は現代医学が「血汗症」として認めているまれな症例で、聖書が目撃に基づいていかに正確に描写されたかを示している一例です。
 
真夜中から明け方にかけてキリストに対する不当な裁判がユダヤ人大祭司二人とユダヤ人最高議会サンヒドリンの前で三回、続いてローマのユダヤ総督ピラトとガリラヤ領主ヘロデの前でやはり三回行われ、キリストはユダヤ人宗教家たちの陰謀によって罪に定められ、当時死刑執行権を握っていたローマの死刑、十字架刑にかけられることになったのでした。イスラエルの掟には無縁だった十字架刑が、イザヤ書や詩篇のメシヤ預言ですでに語られていたことほか、夜間の裁判が認められていなかったこと、大祭司は決して衣を裂いてはならなかったこと等々、キリストの裁判がユダヤ人の掟の十九項目にも及ぶ違反で達成されたことは驚異でした。この裁判は、ユダヤ人の掟に従えば、何から何まで不法だったのです。しかし、当時の大祭司カヤパが図らずも衣を裂き、自ら掟を破ることによって失脚したことは、裏返せば、もはや動物の血によるいけにえの儀式を通してではなく、ご自分の血によって罪を贖い、信じる者に永遠の生命の道を開かれた真の大祭司、天からの永久の大祭司が到来したことを象徴する出来事だったのです。ユダヤ教の儀式に依存する旧約の時代ではなく、イエス・キリストの犠牲の死に依存する新約の時代の幕開けが、皮肉にも狼狽した大祭司の行為に象徴的に物語られたのでした。
 
また、人間史はエデンの「園」の最初の人アダムの罪に始まり、滅びへの過程に入ったのでしたが、二千年前、オリーブの「園」での第二のアダム、キリストの執り成しの祈りが聞かれた結果、人類史に新しい永遠の生命の道が開かれることになったのでした。最初に罪が発生した「園」は、人類の救い主によって死の園から生命の園に復興させられたのです。真の大祭司キリストは、ゲツセマネの園で、ユダヤ人の宗教家たちによって差し向けられた暴徒たちに捕らえられたとき、「もしわたしを捜しているなら、この人たちはこのままで去らせなさい」(ヨハネ18:8)と命じられ、弟子たちの生命を守られました。特に、ペテロが剣で、大祭司のしもべの耳を切り落としたとき、キリストは即座にご介入され、しもべマルコスを癒されたことにより、ペテロは逮捕されることなく、処刑を免れたのでした。これは、「父が選んでキリストに与えてくださった者たちのうちだれも滅びることはなかった」とキリストが前もって語られたこと(ヨハネ17:12)の成就であると同時に、至聖所で民の罪の執り成しをする、死活に関わる大役を担ったのは大祭司だけという掟(レビ記16:17)を象徴的に実践した行為でもあったのです。このようにキリストは、真の大祭司としてただ一人苦しみ、人類の罪の執り成しをしてくださったのです。また、キリストが十字架上で息を引き取られたとき、エルサレム神殿の聖所と至聖所とを隔てていた垂れ幕が「上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)という超自然的な出来事が起こりましたが、このことによっても、至聖所で動物のいけにえの血によって贖罪をするレビ系の大祭司がもはや必要なくなったことが象徴的に明示されたのでした。へブル人への手紙の著者が

キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(へブル人9:26)
と告げたように、真の大祭司キリストは、ご自分の血で至聖所に入り、一回にして永久の、真の生命に至る道を開いてくださったのでした。