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第217号 へブル人への手紙10:1-22:

旧約の儀式に反映されている神が人に要求される 礼拝の基本的原則


律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです……雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
……すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して
罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです……これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
こういうわけですから、兄弟たち、私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです……私たちは、心に血の注ぎを受け入れて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。  
ヘブル人への手紙10:1-22
 
  ヘブル語(旧約)聖書には、エルサレム神殿に関して五十二章以上ものスペースが割かれています。ソロモンによってエルサレムに最初に建てられた神殿には、神の永久のご臨在の場として「神の契約の箱」が内堂(至聖所)に安置されました。モーセの時代、可動式の幕屋に置かれた「神の箱」には、神が命じられるときいつでも即座に移動できるように、祭司たちが肩に担ぐための担ぎ棒が箱に取りつけられたままになっていましたが、神殿が建設されたことによって、神を礼拝する場所は「神の箱」はじめ、重要な神殿調度品、聖具の置かれているエルサレム神殿だけと定められたのでした。イスラエルの王国時代、このエルサレム神殿での盛大な儀式は、イスラエルが中東の近隣諸国とは全く異なった、唯一真の神ヤーウェを王とする神権国家であること、また、神の代理人である人間王はじめ民が神の掟を遵守、実践する国家であることを諸国民に証しする重大な役割も担っていました。ソロモンの神殿と呼ばれるエルサレム第一神殿は、人の考案によって築かれたものではなく、神がダビデに神殿構造や設置調度品、礼拝次第の詳細を示されて、息子ソロモンが完成した比類のない建造物でした。この神殿の間取り図や調度品、聖具の特徴と、人の内部構造や人の中に形作られるべきイエス・キリストの本質、心には密接な相関関係が見られますが、このことは、天地万物、全創造の造り主、考案者が一人の神であるとの聖書の主張から裏づけられることです。

たとえば預言者イザヤは、「主の霊…知恵と悟りの霊…はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊」(イザヤ書11:2、下線部はNIVでは「助言と力の霊」)と、メシヤの本質を七つの霊で表わしましたが、ソロモンの神殿の入り口の柱廊式玄関の外に立っていた二本の柱の名は「ヤキン」と「ボアズ」で、その意味はまさに「ヤーウェの助言」と「ヤーウェの強さ(力)」でした。神殿そのものに反映されているヤーウェの本質を代表するかのような二本の柱を過ぎると、神殿の内部はその他のメシヤの本質、―主(神性)、知恵、悟り、知識、畏敬― に満ちています。言い換えれば、人を通してさまざまな働きをされる神の霊をすべて(「七」に象徴)所有しておられるメシヤには、人のあるべき姿、理想的な人間像が具現されています。パウロはこのことを、聖なる神の神殿をキリスト者の身体になぞらえて、あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか…神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」(コリント人第一3:16)と表現し、信徒は聖なる御霊に属する生き方をすべきであると奨励しました。パウロはまた私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを になうべきです……私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです……昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです……それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」(ローマ人15:1-6)とも教え、ヘブル語聖書を含め全聖書には、人が神の道、―他人の重荷を負い、自分ではなく他人の益となる生き方― を理解するために必要なことがすべて書かれていることを、神をほめたたえ礼拝することへの指示として、語っています。神は、ご自分の道を後世の読者が理解するのを助けるために、ヘブル語聖書に、神殿の荘厳な外観、調度品、聖具、間取り図の詳細はじめ多くの視覚的描写、図解を残されたのでした。確かに、へブル人たちがモーセの掟に従って、どのように礼拝したかを知ることによって、神ご自身が望まれる礼拝形式を学ぶことができ、今日の新約の時代の礼拝に応用できるようです。

モーセ五書の幕屋建設の記録、列王記や歴代誌の神殿描写、モーセの掟、イスラエルの伝統を参照すると、へブル人の礼拝形式を描写することができます(『一人で学べる出エジプト記』25~40章、補注26、27、28参照)。まずレビ人が神殿の外庭の門を開くと、礼拝するためにやってきた人々は歌を歌い、主を賛美しながら、外庭に入ってきます。神にいけにえを捧げる儀式を伴う礼拝の始まりです。祭司は内庭に入り、直ちに青銅の祭壇のところに行き、両手両足を洗います。モーセの時代の幕屋の庭とは違い、ソロモンの神殿の内庭には十の洗盤が置かれていました。手足を聖めた後、祭司は神殿の東側に置かれた青銅の祭壇で自分を含め人々の罪を聖めるために、モーセの掟に則っていけにえの動物を捧げます。その後、祭司は、鋳物の海」と呼ばれた、直径4.5m、高さ2.25mもある大きな水ために全身つかり、身体を洗い聖めます。その後、本堂(聖所)に戻り、衣服を着替えた祭司は手のひらに香を取ります。本堂と内堂との間には「金の祭壇、―幕屋では「香壇」と呼ばれた― が置かれていましたが、そこで祭司は手の中の香を燃える炭の上にふりかけ、煙が立ち上る中、履き物を脱ぎ平身低頭で主を礼拝したのでした。罪の赦しのためのいけにえを捧げた後、身を聖め正装して主の御前にひれ伏すこの光景はまさに、モーセの掟で定められ、「御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、御前に行け。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ」(歴代誌第一16:29)と、詩篇のダビデの賛歌の中でも歌われている伝統的な礼拝形式です。このようにして礼拝の儀式を終えた祭司は本堂から出て、外庭に集まっていた人々に、金の祭壇で自ら主から受けた満たし(油注ぎ)を分かちます。このとき祭司が引用する聖句は「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」(民数記6:24-26)に代表される民への祝福のメッセージでした。祭司は一日に二度、朝と夕、この祭儀の全行程を繰り返すことが定められていたのです。

これら旧約の掟に基づくヘブル人の儀式は、新約の掟に生きるキリスト者にどのように応用することができるのでしょうか。旧約の儀式が意味していることを新約の時代に反映させることができれば、神の御旨に従った礼拝ができるに違いありません。言うまでもなく、冒頭に引用した聖句に明記されているように、このような儀式、礼拝形式を踏むことは、キリストの十字架上での死による人類の罪の贖い、永遠の生命への救いの代わりになるものではありませんが、旧約時代、神がこのような儀式を踏まなければ罪は赦されないと定められたということは、罪の赦しには神の定められた方法を通らなければならないことがさし示されていることを物語っています。これらの旧約の儀式には、神が要求される基本的原則が反映されているに違いないのです。

信徒はまず、神をほめたたえ祝福に与りたいと心を開いて神の御前に出ます。次に、何度も身を聖める旧約の儀式に語られていることは、聖くなければ神の御前に近づくことはできないということです。神はイスラエルの民に「わたしはあなたがたの神、主……あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから……」(レビ記11:44-45)と命じられましたが、ペテロはこの御言葉を引用して、ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」(ペテロ第一1:13-16)と教えましたが、これは神を礼拝する者に要求される基本原則です。またキリストは一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって豊かな実を結ぶたとえを通して、ご自分の死が多くの者に永遠の生命をもたらすことになることを教えられましたが、そのとき、キリストご自身にならって自分の生命を捨てる覚悟で仕えることがキリストに従う者の姿勢であり、父に受け入れられると語られました。パウロの言葉を借りるなら、神に生かされるため自己に死に「香ばしい香り…神が喜んで受けてくださる供え物」(ピリピ4:18)として全身全霊を捧げる、へりくだりの姿勢です。最後に、祭司が人々に分かつために神の満たし、祝福を受けたように、主から受ける祝福は自分のために蓄えるものではなく、人に分け与えるためのものであるということです。さらに、礼拝が日々の儀式であったということは、朝夕、毎日、神との関係に生きることが要求されているということです。

礼拝とは、週に一度形式的に守る儀式ではなく、キリストの本質を自らの内に形作るために必須な神との正しい関係に日々生きることで、キリストは新約時代に守られるべき礼拝形式を、サマリヤの女へのメッセージの中で、場所、形式とは無縁な「霊とまことによって父を礼拝する」ことであると教えられたのでした(ヨハネ4:21-24)。このように、掟を守り、大祭司よる儀式を通して年ごとに罪が赦された旧約時代と違い、イエス・キリストによる贖いを信じる信仰によって永遠の生命にあずかる道が開かれた新約時代においても、神が人に要求される信仰姿勢は旧約時代と何ら変わらないのです。心身ともに自らを聖く保つことと神の御旨への従順は、礼拝(人と神との日々の関係)が受け入れられるためにキリスト者に要求される原則なのです。