ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟と なる。アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに 伏すが、それを脅かす者もいなくなる。エフライムは要塞を失い、ダマスコは 王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。 ―万軍の主の御告げ―
その日、ヤコブの栄光は衰え……やせ細る。刈り入れ人が立穂を集め、その腕が 穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落ち穂を拾うときのように なる。オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残され る。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。 ―イスラエルの神、主の御告げ―
その日、人は自分を作られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を 見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造った者、アシェラ像や 香の台を見もしない。その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所の ようになり……捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。 あなたが救いの神を忘れてあなたの力の主を覚えていなかったからだ。それで、 あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。あなたが植えたもの を育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日 に、その刈り入れは逃げうせる。
ああ。多くの国々の民がざわめき―海のとどろきのように、ざわめいている。 ああ、国々の騒ぎ―大水の騒ぐように、騒いでいる……しかし、それをしかる と、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前で うず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。夕暮れには、見よ、突然の 恐怖。夜明けの前に、彼らいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たち の分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。
イザヤ書17章
イザヤのこのダマスコ(今日のシリアの首都ダマスカス)に関する預言は、まだ完全には成就していない遠未来預言として、シリア紛争が混迷を極めている昨今、注目されている預言です。以下、『一人で学べるイザヤ書』p. 86-88からの引用を加えて、考察してみました。
このくだりはシリヤ(アラム)と北イスラエル王国が当時の列強アッシリヤに対抗して反アッシリヤ同盟を結んだ、まだ国家安泰だった頃にイザヤに与えられた神命のようです。イスラエルが、ダビデの時代から戦闘が絶えず、いつも敵対関係にあったシリヤと同盟を結んで和平を取り戻したのも空しく、両国の行く末はアッシリヤによる侵略、滅亡でした。732BCEに、ティグラテ・ピレセル三世が、ダマスコをアッシリヤの属州にしたことにより、この預言は近未来的に成就し、エフライム(イスラエル)の多くの都市もアッシリヤ軍により、陥落したのでした。 4節以降では、対象がダマスコからイスラエルに移ります。穀物の「刈り入れ」のときは、神の厳しい裁きの日の象徴として聖書ではよく登場しますが、神の御心はイスラエルに希望を与えるものです。たとえイスラエルの家が神への反逆のため神の栄光を失い、衰えたとしても、刈り入れの後に畑に残されるごくわずかな「落穂」のように、また、オリーブの実を収穫するとき打ち落とされずにかろうじて枝に残される「うれた実」のように、ほんの少数でも神を信じる者がイスラエルに残されることなのです。
イスラエルの民が豊かな地の産物を得ることができないのは、「力の岩」であり「救いの神」である主をないがしろにしたからである、という主のお言葉には、その道をイスラエル自身が選んだのであるから、蒔いた種の刈り取りを自ら担っていかなければならないという聖書の一貫した主張が窺えます。この原則は、もちろん、異邦人諸国にも適用され るベきものです。裁きの日には、人間だけでなく町々にも善悪の区別が明確になされ、この世で誉れを得た「堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり……荒れ果てた地となる」でしょうが、その日、贖われた者たちは、異教の神々には目もくれず、創造者なる唯一の神を崇拝するようになるのです。 最初の段落で、シリヤが都、国を失うことが預言されていますが、「アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる」は、おそらく異邦の民シリヤであっても神を信じる者は、栄光ある神の民イスラエルのように、迎え入れられるということで、キリストの再臨によって成就する「神の国」が予兆されているようです。 最後の段落では、神の裁きの御手が「海」に象徴される異邦人に下るとき、突然襲うであろう恐怖と同時に、イスラエルを攻撃する異邦人諸国の騒々しさが、一般的、かつ経験的叙述で語られています。イスラエルを威嚇(いかく)する敵国の崩壊はイザヤはじめ預言者たちが告知してきましたが、具体的に成就したのはイザヤ書37:36に記されているアッシリヤ軍の突然の退陣の出来事においてでした。 他方で、「大水」(複数)や「もみがら…ちり」に象徴された敵や、12-14節の「多くの国々の民」のざわめき、騒ぎから、諸外国が対象になっており、したがって、ここに象徴されているのは遠未来預言で終末末期の戦争への言及とみなすことができ、今日の中東の動きはその成就に確実に近づいていることを指し示しています(フルダレターNo. 136参照)。
「西岸地区」の紛争の実際の原因、PLOが設立された本当の理由、昨今の「イスラエル、アラブ和平プロセス」とん挫の背後に何があるのかについて、イスラエルの前外務審議官ダニー・アヤロンは動画を用いて明快に次のように答えています。
「ヨルダン川西岸地区におけるイスラエルの法的権利、和平プロセスに注目してみましょう。多くの人々はイスラエルの西岸地区での駐留(「占領」と呼ぶ人もいます)が、パレスチナ人のイスラエルに対する敵意の原因で、平和が実現できない理由であるといいます。でもそれは本当でしょうか。イスラエルの駐留が紛争の原因だとすると、イスラエルがヨルダン川西岸にいなかった1967年以前には、紛争がなかったことになります。事実はどうでしょう。 PLO(パレスチナ解放機構)は、1964年に設立され、当時、西岸とガザのすべては、アラブ人の手中にありました。それではなぜ、アラブ人は、イスラエルがまだ西岸とガザに駐留していなかった1964年にPLOを作ったのでしょうか。彼らが解放しようとしたのはどの『パレスチナ』だったというのでしょう。その答えはPLOの紋章(中東の地図からイスラエルは抹消されている)にあります。
PLOは、中東の地図から全イスラエルを力づくで取り除くために設立されたのです。そのゴールは彼らの憲章に明記されています。このゴールは決して目新しいものではなく、PLOは、『No』と言い続けてきた長いアラブの歴史を継承したにすぎません。 それは、ユダヤ人の民族自決権への『NO』です。ユダヤの父祖の地を承認することへの『NO』です。 歴史を振り返ってみましょう。1937年に、ピール委員会は、土地の分割、ユダヤ国家と アラブ国家への分割案を提示しました。その案ではアラブの割り当てとして、国際連盟が当初ユダヤ人の祖国として認めた領土の96%が含まれていました。 この分割案には、西岸どころか、はるかに多くの領土がアラブの割り当てとして含まれていたのです。しかし、ユダヤ人を和平のパートナーとして受け入れる代わりに、パレスチナの指導者ハジ・アミン・アルフセイニは『NO』と言ったのです。そして、自分に近い ビジョンを持ったパートナーを見つけました。
1947年に、国連は分割案を推奨しましたが、それは再び、(1937年のピール委員会の 提案ほどではなかったが)アラブ側にただ西岸地区だけでなく、それよりはるかに多くの土地を割り当てた案でした。しかし、この提示に対し、ユダヤ人は『YES』と言ったのですが、アラブの指導者は再び『NO』と言い、『イスラエル絶滅戦争』を始めたのです。
その結果、イスラエルは戦争に勝利し、建国へと導かれました(1948年)。 他方で、アラブ諸国は西岸地区全部を手に入れたにもかかわらず、一日として平和は なく、『NO』と言い続けたのです。彼らは西岸地区を発射台に用いて、イスラエルを容赦なく攻撃し続けました。アラブ諸国の攻撃は、1967年にイスラエルが防衛戦争でそこを 掌握するまで続いたのです。戦後もアラブ連盟は、あらゆる和平への試みを拒否しました。彼らは交渉ではなく、武力行使を再び続けたのです。そして、ハルツームのアラブサミットでも、彼らが連発したのは『NO、NO、NO』でした。
ここで、歴史を早送りして、イスラエルとパレスチナが『オスロ合意』に調印した1993年に飛びましょう。果たして、パレスチナ人はついに『YES』と言ったでしょうか。確かにそのように見えました。イスラエルは『YES』と言い、パレスチナ政府に自治を託し、 その設立を助けることにしました。しかし、合意に署名したにもかかわらず、パレスチナの行動は『NO』を示すものでした。その後続く五年間、イスラエルに対するテロ攻撃は 著しく増加し、何百人ものイスラエル人が殺されました。 1996年にパレスチナの指導者ヤセル・アラファトは『我々はイスラエル国家を排除し、純粋なパレスチナ国家を建設することを計画している』と宣言しました。にもかかわらず、イスラエルは『YES』と言うのを諦めませんでした。 2000年に、イスラエルのバラク首相は西岸地区の93%をパレスチナ人に提供しました。 しかし返答は再び『NO』で、テロも増加しました。 2005年には、イスラエルは和平推進を期待して、ガザ地区から撤退し、8500人のイスラエル国民を退去させました。しかし、パレスチナ人は、再び『NO』と言ったのです。今度は、ガザからイスラエル国民を狙ったロケット弾攻撃を五百%も増加させたのです。 2008年には、イスラエルは再び『YES』を試みました。このとき、オルメルト首相はパレスチナ側のほぼ全ての要求を受け入れ、わずかな領土交渉を伴う西岸地区のほぼ百%に 近い部分を割譲するとまで歩み寄ったのです。果たしてパレスチナ人はどのように答えたでしょうか。再び『NO』でした。
私たちはこのような状態を一体どのように結論づけることができるでしょうか。
- パレスチナ、イスラエル間の紛争はイスラエルの西岸地区での駐留が原因ではない。紛争の本当の原因は、今日に至るまで、『NO』と言い続けているアラブの長い歴史にある。和平への『NO』、イスラエルの存在への『NO』 。『NO』はパレスチナの政策、教育、メディアに一貫しており、政治的、宗教的指導者たちは絶えず、イスラエル撲滅を奨励している
- イスラエルは何十年にも亘り『YES』を言い続け、ヨルダンやエジプトとの和平条約の締結で証明してきた
では、和平を実現するため、ここからイスラエルはどのように進めばよいのでしょうか。善意と、互いの自決権を認めあうことと、両者の真の譲歩が必要です。イスラエルは、永続的な真の和平への『YES』を言い続けます。しかし、和平プロセスが成功するには、パレスチナが、とり続けている譲歩しないという強硬策の選択を断念しなければならないのです。『NO』の選択を断念しなければならないのです。今がそのときです。」
Video of the Day: The truth about the peace processのビデオ(日本語字幕入り)をぜひご覧ください。