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第208号:エレミヤ書30:3-22:コロンブスの謎

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神の約束の地にメシヤの王国が樹立さ れることを待ち望み、 ヤーウェに忠実に生きた隠れユダヤ教徒ク リストファー・コロンブス、1492年8月3日、スペインに発布されたユダヤ人追放令の最終期限日の  真夜中直前、東洋に向かって出帆した

見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」……ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。 その日になると、―万軍の主の御告げ―わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。―主の御告げ―イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ……わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」……
わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、ひどい懲らしめをしたからだ……あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事をあなたにしたのだ。しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き……わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ…… 見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ……その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる……その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく……あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
エレミヤ書30:3-22

ヘブル語(旧約)聖書には、イスラエルの民の大艱難の後の究極的な王国復興の約束が至る所に預言されています。キリストが予告されたように、西暦七十年、神殿、都、国を失い、世界全土に散らされたイスラエルは、ほぼ千九百年もの年月を経て 1948 年、奇蹟的に約束の地に国家を復興させることができましたが、イスラエルの王ダビデの血筋のメシヤによる御国の到来は、現時点でまだ成就が待たれている未来預言です。冒頭に引用したように、神は預言者エレミヤに、神の民イスラエルが罪悔い改めて神に立ち返るまでは、苦難を経なければならないことを明らかにされました。そのときが来れば民は間違いなく贖われ、最初の繁栄、祝福に戻されるのですが、長い苦難の歴史に加え、最後にはかつてない大艱難をも経なければならないことが預言されており、今日に至るまで、ユダヤ人はまさにその通りの歴史を歩み続けています。古代アラム語で意訳されたヘブル語聖書『ターガム』では、「彼らの王ダビデ」は明確に「彼らの王ダビデの子、メシヤ」と意訳されており、「権力者……その支配者」も「メシヤ」と明記され、ユダヤ教徒たちが、苦難の中でひたすらにダビデの血筋のメシヤを、約束を成就する王として待ち望んでいたことが窺えます。ユダヤ人がこの現在の苦境を未来の確かな希望に焦点を当てることで乗り越えてきたことはイスラエル史が物語っていますが、今月は、「もし正しく、目的が純粋に主の御用のためであれば、何であれ、私たちの救い主の名によって行うことを、だれも恐れるべきではない」とつづった隠れユダヤ教徒、クリストファー・コロンブスに目を留めることにしましょう。

「いよー、国(1492)が見えた!」のごろ合わせで年数を覚えた、アメリカ大陸発見者のコロンブスは、ジェノバの歩哨の息子イタリア人クリストーフォロ・コロンボなのか、スペイン人の羊毛商人ドミンゴ・コロンの息子クリストーバル・コロンなのか、諸説がありますが、日本では、探検家コロンブスとしてよく知られており、昨年八月、歴史に名を残したコロンブスの大航海五百二十周年が祝われました。長い間、コロンブスの出自、航海の動機、航海費の資金援助者などはなぞに包まれていましたが、最近、興味深い多くのことが明らかになって来ています。コロンブスは、当時のスペインの支配者、アラゴン王フェルナンド二世とカスティーリャ女王イザベルに謁見することのできる立場にいたようで、一般には、スペイン王家に東洋から金や香辛料を運んだイタリアの探検者とみなされてきました。しかし、歴史家たちが見落としてきたことは、コロンブスがイスラム教徒の支配下からエルサレムを解放しようとの情熱を抱いていたということでした。

ユダヤ人のヨーロッパ移住は西暦七十年のエルサレム崩壊以前にすでに始まっており、キリストご降誕より数世紀前にイベリア半島に移動したスペインのユダヤ人は、西暦一世紀ごろからヘブル語のイベリア半島に因み「セファルディム」と呼ばれるようになり、エルサレムへの巡礼を続け、その後、二百年ごろから千年以上に亘り、スペインはユダヤ人の第二の故郷となったのです。しかし、ローマカトリック教会のイノセント三世が始め、グレゴリウス九世が完成させた宗教裁判の矛先が、南フランス、イタリア、ドイツ、オランダはじめ、スペインにも及ぶことになります。イノセント三世は十三世紀初頭、「神の代理人」と主張し、ドイツ、フランス、英国、及び、全ヨーロッパの王家を意のままにし、教皇の中でもこれほどの権力を行使した者はいないと言われた暴君でした。二回に亘る十字軍遠征を命じ、教会史に多くの流血沙汰の汚名を残しただけでなく、神の言葉「聖書」とは全く無縁の、聖餐のパンとぶどう酒の「全質変化」の勅令、秘密の告白「懺悔の秘蹟」の指令、教皇の無謬宣言、ラテン語以外の聖書朗読の禁止、異教徒の根絶などを命じた悪徳な教皇でした。宗教裁判は「聖職」の名の下で公然と行われ、密告で告訴された異教徒は拷問にかけられた後、判決が宣告され、犠牲者は生涯監獄に入れられるか、焼身刑に処せられ、没収された犠牲者の財産は教会と王家を潤すことになったのでした。

五百年の間、公然と続けられた宗教裁判は、まさに人類史における最も極悪非道な惨事でしたが、スペインでの宗教裁判を容認した教皇シクトゥス四世は、キリスト信仰を逸脱した「お金で煉獄から魂が救われる」という法令を布告したばかりでなく、経済的、政治的陰謀のために教皇の座を用い、身内の者たちを富と虚栄で満たした教皇でした。スペインのユダヤ人が宗教的迫害、組織的虐殺の的になったとき、多くのユダヤ人が、ユダヤ教を放棄し、カトリック教に回心することを迫られました。これらカトリックへの改宗者は「コンベルソ」と呼ばれましたが、回心したふりをし、外的にはカトリック信者を装い、内的にはユダヤ教に留まったユダヤ人はスペイン語では「忌まわしい者」、あるいは、「豚」の意の「マラーノ」と呼ばれました。貪欲な王フェルナンド二世はスペインの富と権力を我がものにする腹心で、1487 年ローマ教皇大勅書を受け、「コンベルソ」と「マラーノ」への迫害、虐殺、財産没収が本格化したのでした。最近の研究では、コロンブスがイタリア語をほとんど話すことができず、幾つかの独特で風変わりな規定を守り続けていた「マラーノ」であったことが多くの証拠から分かってきています。1.収入の十分の一を貧しい者たちに施すこと、2.貧しい家庭の娘たちのために、結婚の持参金を肩代わりすること、3.リスボンのユダヤ人地区の入口界隈に住んでいるユダヤ人に定額のお金を与えること、を実践し、また、4.スペインのユダヤ人墓地の墓石上に見かけるのとよく似た、点と文字を組み合わせた三角形のしるしを自らの文書の署名に用い、自分の子らには、生涯、そのアラム語の「カディシュ」、―近親の者の死を悔やむとき、ユダヤ教の会堂で唱えられた祈り― をつづり換えた暗号で署名するようにと命じたのでした。また、コロンブスは、5.神がユダヤ人に与えると約束された聖地がユダヤ人に戻されることを望みみて、そのための支援金を残すことを心がけたのでした。

コロンブスが話すのに、また、書くのに用いたスペイン語はイベリア半島東部の北部と中部で話されたスペイン語で、セファルディムのユダヤ人の間で話された言葉「ラディノ」であったことが解明されました。また、息子に向けて書かれた一通を除くすべての手紙の冒頭の左上には「神の御助けで」を意味するヘブル語が省略形で、‘ב(ベト)’と‘ה(ヘイ)’の二文字で手書きされており、これは他のだれに宛てた手紙にも見られない特徴であることから、コロンブスが隠れユダヤ教徒であったことが裏づけられるのです。さらに、ユダヤ人の間で独自に用いられていた「第二の家の崩壊」(「エルサレム第二神殿崩壊」への言及)という表現や、その崩壊の年を一般に採用されている70CEではなく、68CEとみなすことはじめ、グレゴリオ暦の年数表記1481年の横にヘブル暦での表記 5241 を添えるなど、大変な迫害の中でユダヤ人としてのアイデンティティーを失わずに、イスラエルの真の神ヤーウェを信じ続けたコロンブスの信仰生活が、五百年以上たった今日も窺えるのです。内輪では「ダビデ王の子孫」であると誇らしげに語っていたというコロンブスの生涯の目標は、エルサレムを取り戻し、聖なる神の宮を建てるための十字軍の資金を獲得するためにアジアへ航海し、金を得ることであったようです。エルサレムに神殿が再建されなければ、メシヤは来ないとの信仰に堅く立っていたからでした。

そのような迫害が迫る中、1492年1月2日、スペインの最後の地域もついにローマ教会の支配下に置かれ、同年3月31日、スペインの全ユダヤ人国外追放令が発布され、8月3日の真夜中が最終期限と定められました。それ以降、まだスペインの領土内に残っていればみな宗教裁判にかけられ、投獄、死刑しかないという残酷な逆境に追い込まれたのでした。そのような事態になったあかつきには、東洋へ向かって自由に出帆してもよいとの許可をすでに王との約束で得ていたコロンブスは、さらに三人の財政上の支援者を立てて王フェルナンド二世と女王イザベルの前に立ったのでした。ドン・アイザック・アブラバネル、ルイス・デ・サンタンゲル、ガブリエル・サンチェスの三人は、コロンブスの航海の資金を調達するということで王と交渉し、王は喜んで、許可を与えたのでした。アブラバネルはユダヤ人で、サンタンゲルとサンチェスはカトリックへの改宗者「コンベルソ」であったことから、コロンブスが「コンベルソ」であった可能性もあり得るのですが、おそらく、本人が堅く信じていたように、最後までヤーウェを信じ続け、「神の助け」で守られたユダヤ教徒だったのでしょう。

コロンブスは、当初8月2日に出帆する計画だったようですが、この日はヘブル暦で最も悲しい日とみなされている「ティシャブ・アヴ」(ソロモンにより建立されたエルサレム第一神殿も、バビロン捕囚からの帰還後再建され、ヘロデ大王により修改築された第二神殿も、1290CEの英国のユダヤ人追放も「アヴの日の九日」に起こり、ユダヤ教では「贖罪の日」に次ぐ重要な断食日とされ、この日にはエレミヤの記した『哀歌』が朗読される。今日も、ユダヤ民族敗戦記念日で服喪の日)であることが分かり、常識的には、朝、潮の満ち始めるときを見計らって出帆するのですが「不幸な日には旅立ちたくない」と一日遅らせ、最終期限日の真夜中前の異例な出帆になったのでした。素性を隠して生きたコロンブスの生涯は依然としてなぞに包まれていますが、神とイスラエルの民を愛し、神の約束を信じて生きた彼の足跡が新大陸発見という偉業に刻み込まれたのです。