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第204号:詩篇140篇:近隣諸国との領土紛争で国家的危機に直面している日本

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果たして日本の、また世界が直面している危機を収めることのできる人物、政策があるだろうか。危機に直面した今の日本に必要なのは、聖書をひもとき、神の知恵を得ること。しかし、何よりも、歴史を最初から最後まで支配しておられる方、唯一真の神の存在を認め、神により頼む以外ないであろう。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ 主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ
私は主に申し上げます。『あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。そのたくらみを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。
私を取り囲んでいる者の頭。これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。そしる者が地上で栄えないように。わざわいが暴虐の者を急いで捕らえるようにしてください。』
私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行われることを。まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
詩篇140篇

日本は今、近隣諸国との領土紛争でかつてない国家的危機に直面しています。日本政府のあくまでも「冷静な対応を求める」とする姿勢を弱腰と非難し、事なかれ主義が蔓延した今日の日本の混迷状態、経済的停滞を、滅亡したローマ帝国の末期に類似しているとする記事はじめ、愛国心の勃興や国軍の再興を期待する声、国家の安全を維持するには、「非核三原則」や「専守防衛」という時代遅れで非現実的な政策を破棄すべきという右翼的な意見などが報道されています。既存政党には日本を任せられないと、「日本維新の会」という新奇な勢力も台頭し、総選挙を前に、政治家らはただ自分が当選することを目ざして躍起になっているようですが、果たして、日本の状態を治めることのできる人物、政策があるのでしょうか。

ある論評の中で、日本の諸隣国との問題が、領土紛争でにわかに深刻化した背景には、日本の米国に対する過度な依存とアジアに対する軽蔑という体質があるとの指摘がありましたが、安全政策に対する日本の誤った態度を根本的に見直さなければならないときが来たようです。ちまたでは、この世の次元からしか現象を捉えないので、どの見解も結局は、軍事力、経済力を強化し、富国、強国、隣国との友好関係、同盟に依存することを強調しているようです。国家の安泰には、他国との同盟に依存する以外に策がないのでしょうか。昨年の東日本大震災以降、復帰に向けての国民の前向きな姿勢にもかかわらず、経済、金融、政治、国際関係、どの局面を見ても斜陽化が間違いない今の日本を立ち直らせるには、視点を変える必要があるようです。忍耐の神は、これまで、神の存在を無視しても人の計画が成功することを許してこられましたが、すべての人に宿るかたくなな罪の心のゆえに、神の荒療治なくして目覚めることがなければ、どこかの時点でご介入せざるを得ないのです。背後ですべての人間史を支配しておられる創造者なる神に目を向け、立ち返る霊的覚醒の時期が世界的に、特に、無神論国として自らの義、掟に生きてきた日本に来ていることは間違いないようです。

中東では、イスラエルのイラン攻撃の可能性が今年初頭からしきりと話題にされて来ましたが、この時期、十一月初めの米国大統領選挙の投票日にかけてのイスラエル攻撃論が非常に高まっています。経済制裁や外交でイランに核開発断念を迫る平和交渉がほとんど決裂になっている現状で、米国がイスラエルを支援せざるを得なくなるタイミングでイスラエルが単独攻撃に踏み切る可能性が強まっているからです。再選を目指すオバマ大統領には、米国政界に多大な影響力を持っているユダヤ・ロビーや多くのイスラエル人票を獲得するには、イスラエルがイラン攻撃に踏み切った場合、支援せざるを得ない弱みがあるのです。しかし、聖書の預言は、終末末期の中東戦争を、全諸国がイスラエルを敵にするものとして描いています。果たして、ちまたで描かれているシナリオ通りに、中東戦争から、第三次世界大戦へ、ついには主ご自身が悪にとどめを刺される「ハルマゲドンの戦い」へと進展していくのかどうか、私たちは大変な危機の時代に生きています。

九月末にニューヨークの国連で百二十箇国以上からの指導者が集まり、演説が行われました。イスラエル抹消を公然と宣言していることで名高いイランのアフマディネジャト大統領は今年は比較的穏やかな口調で演説し、開発途上国がユダヤ主義者と世界を牛耳る資本主義大国、体制によって危険にさらされていることを訴えた後、後半部は、イスラム教シーア派の救い主「マディ(Imam Al-Mahadi)」の出現が非常に近いことに、新しい世界体制の希望を託して、締めくくりました。アラーの神の約束の救い主マディは完璧な人間で、イエス・キリスト(PBUH)と義人たちを従えて来て、この世の諸国のふさわしい男女を用いて、究極的、理想的な人生へと導いていく、抑圧、不道徳、貧困、差別は終わりを告げ、公義と愛と共感が始まるとのメッセージでした(Ref. IR_en.pdf)。

イスラム教では、イエス・キリストを実在の人物、預言者と認めていますが、大統領の演説内容から明らかなように、マディに同行する一預言者に格下げされており、キリストの神性は一切、否定されているのです。国連会場では、ことが宗教的なことに及ぶと多くが退席したとのことですが、この世の情報はまさに混迷を極めており、背景を知らない人たちにとっては、真実か幻想や妄想かを判断することは容易ではありません。逆境の中で苦しんでいる人たちは、理想的な話しを聞くと盲目的に飛びついてしまうでしょう。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません」(マタイ24:24-26、下線付加)とキリストが警告された日が非常に近づいているのです。起こっていること、現象を正しく判断するには、絶対信用できる普遍的な基準、―神ご自身の言葉―が必要です。それが「聖書」で、キリストが弟子たちに話されたすべて必要なことはまさに聖書に記されているのです。キリストはよくヘブル語(旧約)聖書を引用され、またイスラエル史を背景にたとえや教えを語られたので、キリストのメッセージを理解するには新旧約両聖書が不可欠です。

領土紛争に関して、聖書には多くの例が挙げられていますが、士師記11章の具体例は今日本が直面している問題解決にヒントを与えるかもしれません。イスラエルが神の掟から離れ、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」士師の時代、アモン人の王が「アルノン川からヤボク川、ヨルダン川に至るまでの、イスラエルが奪った私の領土を穏やかに返してくれ」と主張し、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。明らかに、国内が混乱状態にあった斜陽のイスラエルを軽んじての脅しでした。にわかにイスラエルの首領として祭りあげられた神の人ギルアデの遊女の子エフタは、まず冷静にアモン人の王に歴史をひもとき、アモンが主張している領土はかつてはアモンのものであったかもしれないが、三百年も前に、正当な戦いを経てイスラエルがエモリ人の王から奪ったのであって、その占領を神ヤーウェが認められ、今日に至っていること、もしアモン人が奪還を願ったのであれば、なぜ三百年の間にそれをしなかったのかと訴え、平和裏に外交で解決しようと図ったのでした。しかし、アモン人の王は道理を理解しようとしなかったため、戦争に至ってしまったのでしたが、主の霊がエフタを導き、イスラエルは勝ち、エフタはさげすまれていた同胞からも認められ、八人目の士師としてイスラエルを治めることになったのでした。神がすべてを支配しておられることを信じ、真の裁き主、神に判決をお委ねするとき、この世の問題も解決へと導かれるのです。

聖書に記されているイスラエル古代史だけでなく、近代史においても神の不思議なご介入でイスラエルが守られたことは数限りなく、キリストがマタイ25章で語られた「羊とやぎの裁き」、―イスラエルと異邦人との関係の原則「善であれ悪であれ、キリストの兄弟たちの一人にしたことは、キリストご自身に対してしたこととみなされ、それによって永遠の生命に入るか永遠の刑罰に入るかのより分けがなされる」― は、今日も適用できるのです。神を受け入れ、信頼し、聖書からの知恵で対処する以外に、諸外国との複雑な問題を解決することはできないでしょう。このような逆境を通して、全人類が神に目を向けるときが来ているのかもしれません。

冒頭に引用した詩篇は、神を信じるイスラエルの残りの者が偽りのメシヤ「反キリスト」、「暴虐の者」によって抑圧され、苦しめられる終末の末期、約束のメシヤ来臨の直前の艱難のときを預言してダビデが詠んだとされている詩篇です。三回繰り返されている「暴虐」はヘブル語の‘ハマス’で、その特徴は「よこしまな人」、くちびるに「まむしの毒」のある者、「悪者」、「高ぶる者」、「そしる者」と表現されています。この詩篇では、脅しと暴力で「暴虐の者」が神の民に対して何ができるだろうか、そのような状態に追い込まれたとき、神の民は「暴虐の者」にどのように対処すればよいのだろうか、「暴虐の者」がたくらんでいる悪、罪に神はどのように復讐してくださるだろうか、神は、ご自分の民、―不当な抑圧、暴虐に耐えて「悩む者」、「貧しい者」、「正しい者」、「直ぐな人」―にどのように報いてくださるのだろうかの四つの訴えが、神に向けられています。まず、詠み手ダビデは、最初の段落で敵の鋭い舌によるそしりと暴虐からの守りに力点を置いて祈り、次の段落で、神との親密な関係と、過去、敵の手から守ってくださった経験を通して、神の偉大さ、救いの力に信頼していることを確信を持って語っています。第三段落では勝利のための祈りをささげ、敵がブーメラン効果で滅びるように、すなわち、自らが仕掛けた罠に陥って滅びるようにと、懇願しています。

最終段落は、義なる神の裁きの正しさに対する確信です。神の掟に通じていたダビデは、逆境のさなかで「私の主、神、わが救いの力よ」と、歴史を支配しておられる全人類の王、主権者なる神‘アドナイ’に向けて祈り、敵に危害を加えて勝利することを望むのでなく、敵が自らの罪によって滅ぶこと、邪悪な者に神ご自身が裁きを下してくださることを懇願したのでした。湾岸戦争のとき用いられ効を奏した「ミサイル迎撃システム」はまさに、この詩篇の描写を地で行ったような印象を与えますが、しかし、この聖句が適用されるのは、イスラエルが神の御前に正しく生きているという条件下においてです。大艱難期に多くのユダヤ人が神に立ち返り、祈ることになると思われるこの詩篇は同時に、日本にも、個々人にも適用されることになるでしょう。