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第282号  マタイ26:47-56

全律法を成就されたイエス・キリスト、無法を合法化する反キリスト

無法を合法化する昨今の時勢、一つの世界秩序に反映される反キリストの精神…

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生。こんばんは」と言って口づけした。イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。…弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。   マタイ26:47-56(新改訳2017)
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。…イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」…八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。…「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」   ヨハネ20:1-27(新改訳2017)


2019年のユダヤ暦の過越の祭りと種を入れないパンの祭りは4月20日(土)から七日間、また、教会暦のイースターは4月21日(日)に祝われます。
ほぼ二千年前、過越の子羊がほふられる日の前夜、イエス・キリストは弟子ユダの陰謀で捕らえられ、人類の罪を贖うため十字架上で亡くなられました。ユダヤ人の油注がれた王、メシヤとして地上にお生まれになったキリストは、血によってしか罪の赦しはないという旧約の掟、いけにえ制度に従って、最初で最後の真のいけにえとして死んで、埋葬され、三日後に甦られました。これら一連の出来事のすべては、すでにヘブル語(旧約)聖書に預言されていたことで、神は弟子の裏切り、宗教的指導者たちの陰謀をはじめ、人々の関わりのすべてを通して預言を成就されました。

冒頭のマタイの福音書26章から引用したくだりでは、ユダの「口づけ」は本来とは正反対の裏切りのしるしでした。ユダの裏切りをご存じだったキリストは、最後の晩餐の席でも、心をすでにサタンに奪われていたユダに向かって「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」(ヨハネ13:27)と言われ、ユダに最後の悔い改め、少なくとも、思い直しのチャンスを与えられましたが、ユダに聞く耳はありませんでした。
この反キリストのひな型といわれるユダを特徴づける、裏切りの「口づけ」を思い起こさせる報道が、写真とともにウェブサイトに載せられていました。(https://www.nowtheendbegins.com

2月4日に、ローマカトリック教会のフランシスコ法王とスンニ派イスラム教で最も著名な導師であるシェイク・アフマド・アル・タイーブ師が、アラブ首長国連邦のアブダビで、友愛の歴史的宣言に署名し、異宗教間の兄弟愛が口づけと手をつなぐ象徴的行為で示されたことが報道されました。この宣言は、諸国家、諸宗教、諸民族間の平和への呼びかけで、過激主義に対する断固とした拒否と人類友愛による共存を目的とすることが強調されています。
聖書的には、「平和契約」は終末末期に結ばれると預言されている世界統一宗教への第一歩で、サイトでは、イエス・キリストが世界に平和をもたらす人類の唯一の救い主であることを強調しない中道的な立場を、法王が以前から保持していたことがほのめかされていました。

さかのぼって、2015年の世界平和の構築における宗教の役割の重要性を強調した国際文書には、フランシスコ法王が国連の一般総会で演説するため、「私自身の名で来た」と語ったことが記されており、一部の人たちの間で、反キリストに関するキリストの警告のお言葉「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます」(ヨハネ5:43、新改訳2017)に照らして、地上の「キリストの代理人」の称号を掲げる法王の言葉としては異例であるとの声が持ち上がったとのことでした。

この2月の「平和契約」では、世界中のすべての宗教の結束には何度も言及されていますが、神には一般的な意味での言及に留められており、聖書の神に対する慣用句「アブラハム、イサク、ヤコブの神」にもイスラエルの族長にも言及されず、真の神を証しする唯一の書『聖書』に関しては引用どころか、言及もされていないようです。
この契約は、バチカンとイスラム教との間だけで交わされたのではなく、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他、全世界の諸宗教の指導者たちの面前で行われたのでした。フランシスコ法王は、数日後、2月11日からドバイで開催された世界政府サミットで世界各国の政治的指導者にもライブ映像で、世界的な統一の必要性と「持続可能な開発」を奨励、後者を連帯なしで達成することは不可能であることを強調しました。
米国の主流メディアはこの世界政府サミットについてほとんど報道しなかったようですが、英国の報道筋によれば、反キリストが世界的支配の目的を達成するための三大要因として世界統一宗教、政治的グローバリズム(地球規模での世界の一体化)、脅威的な最新科学技術を挙げ、昨今の「一つの世界秩序」への動向を、反キリストに道を開くステップとして危惧するクリスチャンは多いようです。

Decoding the Antichrist and the End Times(反キリストと終末の解読)』の著者マーク・ビルツは、クリスチャンはだれが反キリストかの模索に多くの時間を費やしてきたが、重要なことは反キリストを推定することではなく、反キリストの霊はいつの時代にもあり、この霊が「無法の合法化」に現れることを知ることであると語っています。
妊娠中絶を合法化する、麻薬ほか有害な薬物を合法化する、売春を合法化する等々、何であれ不道徳、不品行を合法化するために新しく掟を作り、その結果、神の摂理に対する反逆に向かっている昨今の時勢はまさに、反キリストの霊に操られた時代に突入しているということなのです。今日、このような反キリストの体制が全世界に浸透し、ますます無秩序化に向かっているのです。
その体制を受け入れる者は獣のしるしを受けることになりますが、唯一真の神を畏れ、神の言葉『聖書』を信じる信徒は、この反キリストの体制に迎合できないので、迫害されることになるのです。

反キリストがもたらす無法が合法化される世界秩序とは対照的に、人類の真の救い主イエス・キリストは死に至るまで神の摂理、御旨に忠実であられたばかりか、甦り後も神の掟に忠実で、文字通り全律法を全うしてくださいました。このことは、冒頭に引用したヨハネの福音書20章のくだりから明らかです。
キリストは、ユダヤ暦に預言的に織り込まれている神の人類救済のご計画の通りに、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、また夏の祭りであるペンテコステの祭りのすべてを成就されました(詳細は『一人で学べるルカの福音書』補注13)。

週の初めの日、すなわち受難週明けの日曜日、ユダヤ暦の「ニサンの月の十七日」、甦られたキリストはだれよりも先にマグダラのマリヤに御姿を顕されました。
空の墓を見て悲しんでいたマリヤは、甦りのキリストの御姿を主と見分けることはできませんでしたが、キリストの御声を聞いたとき、即座に主と分かり、喜びのあまりすがりつこうとしました。そのときキリストは「まだ父のもとにもどっていないので」と言われ、それを制されました。
しかしその八日後、弟子たちが集まっていた部屋に御姿を顕されたときには、主はトマスに、手を伸ばして触り、本物かどうかを確かめなさい、と言われたのでした。

一見矛盾したキリストの行為に関して、いろいろな解釈がありますが、この文脈にふさわしい解釈は二つです。
まず、甦り直後のキリストは、ご自分がメルキゼデクの位のとこしえの大祭司として、天にご自分の、十字架上で流された聖い血を献げる途上にあったので、儀礼上の汚れを避けられたことが考えられます。次に、甦られた後、キリストと弟子たちとの関係はもはや古い肉の身体の関係の延長ではなく、全く新しい霊的な関係、物理的な関わりを越えた関係に入ったことをマリヤに示されたと、解釈することができます。

レビ記16章には、大祭司が自らとすべての民の罪を贖うため、幕屋の至聖所にときをわきまえて相応しい状態で入り、重要な役割を果たす必要があることが記されています。
また、出エジプト記29章やレビ記8章には、聖所で神に仕えるために祭司は聖別される必要があり、その任職式に七日間が費やされることが記されています。
「あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入り口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。…あなたがたは会見の天幕の入り口で七日の間、昼も夜もとどまり、主への務めを果たさなければならない」(レビ記8:33-35)と命じられているように、この期間に聖所を離れ、この世の儀礼的に汚れたものや人と接触することは禁じられていたのでした。

ヘブル人への手紙の著者は
「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。ですから、天にあるものの写し(地上の幕屋)は、これらのもの(動物のいけにえ)によってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのもの(天上の幕屋)は、それ以上にすぐれたいけにえ(キリストご自身)によって、きよめられる必要があります(9:22-23、下線、説明付加)と語り、天地、人類の創造前に御使いルシファー(サタンの前身)の堕落、神への反逆によって汚された天界そのものが聖められる必要があり、そのため、動物犠牲ではなく、キリストの犠牲が必要であったことを明確にしています。
甦られた直後、キリストはご自身「多くの人々の罪を負うためのいけにえ」として、また、とこしえの大祭司として、サタンの猛攻撃に直面する地上の信徒の執り成しをするために、天の聖所を聖め、律法を全うして八日後に弟子たちに御姿を顕されたのでした。