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第256号  ヨハネ3:1-21 

奇妙な都市伝説「ロナルド・オーパスの殺人事件」

この世の法廷の判決の難しさ、身体の死の後の行く先や状態、すべての人の心の奥底にひそむ罪の問題、不義が義としてまかり通り、義が不義として非難される明らかに腐敗した社会体制等々、未解決なままに見過ごされていることが、私たちの周りにはたくさんある…
しかし、『聖書』はすべての問題に答えと洞察、方向性を与え、真理を求める者たちを、被造物すべての「いのち」を支配しておられる神の御旨へと導いてくれる…
都市伝説の殺人事件、驚異的な偶然が重なった事件を通して、神の御旨を探ってみよう!

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」…「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。…それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。…悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。    
ヨハネ3:1-21

世界各地で、市民戦争、テロ行為、流血沙汰が起こり、「生命」の尊厳が日増しに失われている昨今、自殺か他殺かの判定が難しい奇妙な都市伝説「ロナルド・オーパスの殺人事件」を取り上げ、「生きる」意味を考えてみたいと思います。まず、話の概要を紹介し、そのあと、持ち上がる問題を考察することにします。

1994年、3月23日に、検視官はロナルド・オーパスの遺体を調べ、散弾銃で頭部を撃たれた傷がもとで死亡したと結論づけました。その時点までの調査で明らかにされていたことは、死者が自殺をするつもりで、十階建てのビルの最上階から飛び降りたということでした(意気消沈していたことを示すメモが残されていた)。

自殺を図ったこの人が飛び降りた直後、ちょうどビルの九階に差しかかったとき、ある窓から散弾銃が発砲され、その一発でこの人の生命は即死に追いやられました。銃を発砲した人も自殺を試みた人も、ビルの八階の床の高さのところに、窓拭き職人を守るために安全網が張られていたことを知りませんでした。この安全網のゆえに、自殺を図ったその人はおそらく目的を遂げることはできなかったでしょう。

通常、自殺をしようと行動を起こし、達成した人は、その手段がたとえ自分がもくろんだものではなかったとしても、究極的に自殺を成し遂げたことになるのです。この人の場合、九階下で達成されるはずであったのは自殺であり、落下途中で銃で撃たれ死亡したということで、この人の死の手段が自殺から他殺に変えられることは、おそらくないでしょう。しかしながら、この人の自殺志願はどんな状況によっても達成されなかったであろうという間接事実のゆえに、検視官はこの人が自らの手で自殺行為をしたという思いには導かれなかったのです。

この事件はさらに新たな発見へと進展しました。散弾銃が発砲された九階の部屋の住人は、高齢者夫婦でした。夫は、夫婦間の小競り合いで日ごろから散弾銃で妻を脅していましたが、あの日、夫はあまりにも激怒して散弾銃をしっかり持つことができない状態でした。そのため、引き金を引いたとき、銃弾は妻を大きく外れて窓外の飛び降り自殺を図った人に命中したのです。

人がAを殺すつもりで現実にはBを殺した場合、その人は、Bを殺害した罪に問われることになります。高齢の夫はこの結論に直面させられたのでしたが、夫も妻もともに銃に弾が詰められていたことを知らなかったと、頑として主張したのです。弾を詰めない空の銃で妻を脅すことは、その人の長年の習慣でした。その人は、妻を殺そうなどと決して思っていなかったのでした。ですから、たまたま窓外を落下中の人を殺害してしまったことは、思いがけない出来事だったのです。いや、銃に弾が詰められていたことは思いもかけないことでした。

しかし、さらなる調査で、その事件のほぼ六週間前に、高齢者夫婦の息子がその銃に弾を詰めているのを見た、という人が現れたのです。調査の結果、母親が息子への財政支援を断ち切ったことに対し、息子は、父親が脅しで散弾銃を使うという性癖を承知の上で、父親が母親を撃つことを期待して弾を込めたということが発覚したのです。この時点で、ロナルド・オーパスの死に対し、この息子に殺人容疑がかけられることになりました。

しかし、ここでまさに絶妙ともいえる、意外な進展がもたらされることになります。さらに調査が進められ、その息子、すなわち、ロナルド・オーパスは母親殺害の試みがなかなかうまくいかず、ますます気を滅入らせていたことが明らかになってきたのです。このことで、息子は、3月23日、十階建てのビルの最上階から飛び降りたのでしたが、その結果は、あにはからんや、九階の窓から発砲された銃弾による即死でした。最終的に検視官は、この事件を自殺の事例として落着させたのでした。

疑問

さて、奇妙な偶然が重なったこの殺人事件には、幾つかの疑問が持ち上がります。中でも主要な疑問、―究極的な疑問―は、この世の判決の是非に関してではなく、
(1)「ロナルド・オーパスはこの後、どこで目覚めることになるのだろうか、天だろうか、火の燃える池(地獄)だろうか?」ではないでしょうか。読者はどのように返答されますか。また、この話から、遅かれ早かれ自分自身が必ず直面することになる「死」に目を向けるとすれば、次のような疑問が生じるでしょう。
(2)「もし突然、死が訪れたら、私はどこで目覚めることになるのだろうか?」
(3)「行く先が永久の至福の天か永久の苦しみの地獄かを今確定する方法があるとしたら、私は今、前者に至る道を選ぶべきではないだろうか?」

これらの疑問に答える唯一の書は『聖書』です。聖書は、天地万物の創造者で歴史をすべて統括し、最初から最後まで、過去から未来まですべてを司っておられる神が執筆された書、「神の言葉」だからです。その信憑性をだれも論駁できない『聖書』が語る真理、絶対基準に基づいて、これらの疑問を考察することにしましょう。

聖書の答え

(1)には、出エジプト記20章の十戒の第六番目の掟、自殺を含む意図的な殺人に対して命じられた「殺してはならない」と、心の中の罪を告発する第十番目の掟が適用されます。「血は肉なるものの生命であり、罪を贖うための唯一の代価である」(レビ記17:11、:14、申命記12:23-24)と主張される神のみが支配しておられる個々人の「いのち」を奪う行為は、神の裁きの対象になります。聖書は
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人9:27)
ことを明記していますから、ロナルド・オーパスはただ死んでこの世からいなくなったというだけでなく、死後、神の掟を破った結果の裁きに直面しなければならないのです。神は人の身体(肉)の滅びを宣言されたので、この世の文明がどんなに英知を結集して挑戦しようと、不死の身体、永遠の人生を達成することはできません。人は死を免れることはできず、死後罪の人生の結果の裁きに服さなければならないのです。神の与えてくださる手段によらなければ、すべての人の行く先は地獄です。

(2)に対する答えは
「しかし、キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。…キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル人9:26、:28)
から明らかです。突然死が訪れたとき、全人類の罪を贖ういけにえとしてこの世に来られ、死んで、新しいいのちに甦ってくださったキリストを通しての救いにあずかっていれば、死後、裁きを免れ、永久に神とともに生きることになるのです。自分の罪を悔い改め、キリストを「私の罪を赦し、罪の奴隷から解放する救い主」として受け入れた人の死後の行く先は「パラダイス」、神の御許、天です。受け入れなかった人の行く先は、この世の法廷の判決やこの世での功績や評価とは全く無縁に、みな一様に「黄泉」、―地獄に至る死人の待合所― です。

(3)の疑問に対しては、「今、この世に生きている間に、永久に神とともに生きる道を選ばなければならない」が答えです。冒頭に引用したくだりで、キリストは「新しく生まれなければ神の国に入れない」と言われ、ニコデモの疑問
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」
に、神の国に入るには
「水と御霊によって生まれなければ(ならない)」
と答えられました。人は母の胎を通して、すなわち、水を通して生まれた後、イエス・キリストを「救い主」として受け入れ、キリストの名による洗礼を受けることを通して、すなわち、御霊によって生まれることを通して、永久に生きる者に変えられると、キリストは言われたのでした。この世でも死後の世でも、真の人生を生きるには、人は二度生まれなければならないのです。

キリストのこの教えから、永久の神の国に入り、神の大家族の一員になるということは、全被造物の中で、女の胎を通して生まれる人間だけに与えられた特権であり、御使いは除外されていることが明らかです。創造の摂理の中で、神は御使いを「救いの相続者となる人々」、すなわち、キリストを受け入れ、従う者たちに「仕える霊」として遣わされたと、『ヘブル人への手紙』の著者は教えていますが、すべての人には神の計り知れない愛によって、この世で自由意思によって生きる特権が与えられています。
しかし、同時に、この世に生きている間に、神の御旨に答えることが要求されているのです。それは、自分が罪人であることを認め、キリストによる救いを受け入れることです。神の無償の愛、恩寵を受け入れることによって、人はただ身体(肉)に生きるだけでなく、御霊によって生きる者に変えられます。
イエス・キリストの名による水のバプテスマは、キリストを受け入れることによって個々人の心の中に生じた変化、信仰告白を公に告げ知らせる儀式です。

御霊による新生は、人がこの世に生まれる誕生のようなだれの目にも明らかな現象ではありませんが、その人のうちには大きな変化が起こり、生き方が変えられます。内住のキリストによって、自分中心の生き方から神と他人中心の生き方へと変えられるのです。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:10)
と記されているように、神の家族に加えられ、永久に生きる者の誕生、新生は天界の一大事なのです。罪の性質を生まれ持つ人が永久の聖い神の国に入ることができるための道を神は、人の努力、功績、献身、善行とは全く無縁に、すべての人に開いてくださいました。神は世を愛するがゆえに、御子を私たちの罪の代償としてこの世に送り、キリストを通しての唯一の救いの道を開いてくださったのです。