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第251号  ヨハネの福音書1:1-18

「ことば」と「光」の隠喩で表された「聖書の神の顕れ」

天文物理学が解説する「宇宙の始まりは放射線、-光り-であった」は、聖書の主張「天地万物は光なる神で始まった」を裏づける!

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光りはやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った…
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。   ヨハネの福音書1:1-18

フルダミニストリーでは、聖書が証しする神の言葉の正しさを、人間の学問「科学」が発見し始めていることを少しでも多くの方々に知っていただくため、五月から『生きるを考える』集いを定期的に開いています。六月の集いでは、天文物理学者のクリス・ドーン師からお話を伺いました。宇宙の始まり「ビッグバン」と聖書が証しする天地創造の話が一致していること、科学は神を証明することはできないが、神の創造の証拠を発見していること、大宇宙にダイナミックに残されている数々の痕跡はまさに神の御手によって天地が始まったことを告げているとの興味深いお話でした。
ドーン師は、科学はキリスト信仰と競合するものではなく、神の偉大さについてもっと理解を深めるための道であり、宇宙の偉大さを知れば知るほど、創造者なる神のデザインの素晴らしさ、偉大さに畏敬の念を抱くことになると語られ、私たちがこの神を知る唯一の方法は、神ご自身が提供された手段イエス・キリストを通して以外にないことを強調されました。神は求める者にご自身を顕される神であり、イエス・キリストを証しする『聖書』に、求める者に必要な神の啓示はすべて記されているのです。

今年6月7日、科学解説者としてよく米国のTVに出演する日系アメリカ人で著名な理論物理学者の加來道雄氏は、「科学的な証拠は神の存在を指し示している」との画期的な見解を表明しました。加來氏は、物理学、数学、また、自らが唱道者の一人である「超弦理論」に言及して、科学が知性的存在、すなわち、「神」の存在を指し示していることを説明しました。
「人が、ある計画の中に置かれていることは、もはや私には明白である。その計画は、偶然によってではなく、普遍的な知性によって創造され、形づくられた規則によって治められている」、「これら新しい科学的な発見が広く知られるようになるや、偶然という概念は永遠に変えられる。今日私たちが偶然と呼んでいるものがすべて、もはや意味をなさなくなるであろう」と言明しています。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。(ルカ8:17、12:2)
と、キリストは、世の終わりにだれの目にも明らかにされる神の真理は、回折されることができない光で、この世のすべての偽善を露わにすると語られましたが、今日はまさにその時代です。


冒頭に引用したヨハネの福音書の1章のメッセージには、ドーン師が強調されたことが総括的に含められていますので、今月はこの御言葉を通して神の創造に思いを馳せたいと思います。
1節は用いられているギリシャ語から、「この世が創られる前、ことばはすでに存在しておられた」と訳すことができ、創世記1章の始まり以前の状態を述べています。
ヨハネは、「ことば」「光」という隠喩を用いて、「神の顕れ」という奥深い概念を説明することを試みました、用いられているギリシャ語の‘λόγος(ロゴス)’「ことば」は、個々の言葉の意だけでなく、メッセージ、啓示としても理解できる用語で、ヨハネは、すでに創造に先んじて存在された方、創造者なる神の顕れの隠喩として用いています。‘φῶς(フォース)’「光」は、生命の源として、また、「やみ」、―サタン、悪を象徴― が打ち勝つことのできない存在として、すなわち、やはり「神の顕れ」として、描写されています。

ヨハネは14節で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた…この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り、18節で、14節を再び強調した別の表明で「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」と、「ことばの受肉」を説き明かした1章の最初の段落を締めくくっています。
1節、14節、18節の宣言をまとめると、「この世が創られる前、ことばはすでに存在しておられた。ことばは人として神の御許から地上に来られ、人々の間に住まわれ、神の恵みと真理を顕された」となり、天地創造に関わられたこの「ひとり子の神」を通してのみ、この世の人々は父なる神を知ることができるということが、この段落の要旨になります。
使徒パウロは、神を「世々の王…滅びることなく、目に見えない唯一の神」(テモテ第一1:17)、「ただひとり死のない方であり、近づくことのできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」(テモテ第一6:16)と表現しました。
私たちはこの唯一真の神を輝く権現や、擬人化することを通してしか見ることができませんが、神はご自分の内なる本質を、人が御子を通して見、知ることができるように、イエス・キリストを地上に送ってくださったのです。言い換えれば、私たちのうちだれも神を見た者、見ることのできる者はいませんが、キリストによって神の顕れを見ることができる、ということになるのです。

「この方は、初めに神とともにおられた」の神‘θεὸς(セオス)’は、ヘブル語の「エロヒイム」(複数形)、三位格の神で、「この方」と近しい相互関係にあられたことが記されています。3節には、ギリシャ語動詞‘ἐγένετο(エゲネトー)’がアオリスト時制で用いられており、無からの創造がすでにあるときに完了したことが分かります。
4、5節には二つ目の隠喩「光」が登場しますが、「闇は光を消さなかった」の意で、この光がこの世の物理的な光、―被造物― ではないことは明らかです。洗礼者ヨハネはこの「光」について証しする重要な役割を担った旧約時代最後の預言者で、新約時代の幕開けを告知し、「光」が闇の領域を侵略すること、闇の支配者サタンとその手下は「光」に抵抗するが、その力を妨げることはできないこと、究極的には、神の言葉なる「光」が勝利することを宣言したのでした。

この洗礼者ヨハネのメッセージを聞き、「この方」を受け入れた者に与えられる「神の子ども」とされる特権は、この用語がヘブル語(旧約)聖書で、神の直接創造の被造物、―御使い― に用いられている用語であることから、大変重要なメッセージです。使徒ヨハネは、出エジプト後イスラエルの民が荒野で過ごした四十年間、神ご自身が民とともに「幕屋を張られた」、すなわち、「彼らの間に住まわれた」の意のギリシャ語動詞‘ἐσκήνωσεν(エスケノーセン)’を、キリストが地上に住まわれたとして用いることによって、幕屋に下った神の栄光を、キリストが地上に下られたことによる神の栄光に重ね合わせています。神の恵みと真理をもたらされた方、イエス・キリストを神の言葉、神の顕れとして信じ、従う者は、もはや肉に生まれた被造物「古い人」ではなく、神の直接創造の被造物「新しい人」(コロサイ人3:9-10)とみなされるようになったのでした。


光は波か粒子か非局所性か、光速は物理定数か否か等々、物理学において依然として神秘のなぞに包まれているといいます。創世記1章の最初の三節は、天地創造に三位格の神のすべて、―「(エロヒイム)」、「神の霊(聖霊)」、「『光があれ』との神のことば(子なる神)」― が関わられたことを明らかにしています。
創造に際して、神の言葉が最初に命じられたのは光の創造で、自ら、霊的な光として存在される神が、物理的な光を創造し、この光によって闇が区別されたのが創造の第一日目でした。このとき神は、時空間と物質を造られたのですが、創造の初めが「光」から始まったことに、宇宙がビッグバンから始まったというドーン師のお話を通して大きな洞察を得ることができました。
宇宙の始まりがなぜ放射線、―光― であったのか。それは、ビッグバンという大爆発で非常な高温状態にあった宇宙の始まりの時点では、最も基本的な微粒子ですら物質 は存在することができなかったので、今日、物質、―被造物― の中にあるエネルギーはその時点ではすべて、放射線、―光― の中、すなわち、神ご自身の中にあったのでした。
このように、すべての生命の源である神は光として存在され、まず、被造物としての光を創造、闇と区別された後、宇宙の冷却に従って、その他の物質の創造をそれぞれ種に従って始められたのでした。神の存在を認めない科学者は、無からの創造、ビッグバン以降の宇宙の膨張について宇宙に残されている痕跡から説明することができても、何が爆発の誘因であったのかを説明することができません。聖書は明確に、神がそれを起こされたことを、また、すべての生命の源がご自分にあることを告げているのです。 

「光があれ」という言葉によって、そこに第二位格の神、―使徒ヨハネが「神の顕れ」としてこの世に告げ知らせたイエス・キリストがおられ―、その御命令と同時に、エネルギーが被造物へと形作られていったとき、創造に関わられた神は、「よし」と認められ、六日間で全創造が完了したのでした。箴言8:22-31には、
「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、私は立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき…この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、私はそこにいた…わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった…」
と、無からの創造に従事されたキリストが、擬人化された知恵として詩的形式で語られています。


聖書は神が光であると至る所で象徴的に語っていますが、光が神ではない、すなわち、光が崇拝の対象にはならないことは、神との親密な関係にあったモーセが神を見たいと願ったときあなたの栄光を私に見せてください…」(出エジプト記33:18-23、下線付加)と願っていることから明らかです。神のご臨在の光り輝きの強さは人には覆いなくしては一瞬のうちに燃え尽きて、見ることができないので、私たちはせいぜい、物理的世界に落とされる神の影を、それでもまばゆいばかりの神の栄光を見るにとどめられているのです。
目に見える神の顕れであるキリストを今信じることにより、「光の子ども」(ヨハネ12:36)とされたキリスト者は、覆いが外され、神のご臨在が全宇宙を照らし、闇(悪)がなくなる永久の時代に入ることが、すでに約束されているのです。