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第245号  ダニエル書4:10-17 

終末末期に起こる全世界的な精神錯乱状態

人には、不快な出来事や思いや感情を、潜在意識下という「秘密の部屋」に押し込み、自らを欺く習性がありますが、これら抑圧された現実が悪夢という形で表面化することになるのです。もし神が悪夢を通して人に語られるとすれば… ネブカデネザルに起こったことには、預言的に終末末期に起こる異常事態が物語られているようです...この世は、聖書が預言している通り確実に悪化、堕落の一途をたどっています。この先は、全世界的な精神錯乱状態なのです... しかし、神の懲らしめが下る背後には、必ず神の大いなる救いのご計画と希望がある…
私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。
ダニエル書4:10-17
王さま。その解き明かしは次の通りです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんで、あなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」 
ダニエル書4:24-27
聖書の中で最古の書『ヨブ記』は、「無実の者、正しい者がなぜ苦しむのか」というこの世の普遍的な疑問に、人が罪の現実に目覚めるため、神はどのようなアプローチを取られるかの論議を通して答えている、実践的な知恵の書です。信仰の人ヨブに起こった災い、苦しみを神の視点から理解するとき、私たちは人生の意義を正しく評価し、神が訴えようとしておられることを理解することができるかもしれません。

『ヨブ記』では、潔白を主張するヨブを三人の友人がさんざん責め、ついに語るべき言葉を失い、押し黙っってしまった後、最後に若者エリフが登場します。信仰の人ヨブは自分が「罪人(つみびと)」であることを十分認めていましたが、自分はそのようなひどい懲らしめ、仕打ちを神から受けるような罪は犯していないと、言い張っていたのでした。祈りが聞かれず、神が沈黙を保っておられることに耐え切れず、神を非難したヨブに対し、エリフは、人は神のご計画に逆らうことのできない被造物にすぎず、神は人の疑問に答えなければならない義務を人に対して負ってはおられないことを指摘した後、神を求めない人々が往々にして見過ごしてしまう神のアプローチがあることに触れました。神が問題のさなかにある人にご自身を顕されるために取られる方法はさまざまですが、その中でエリフが取り上げたのは、夢と痛みでした。

ヨブ記33:15-18は、神が、夢や悪夢を通して人を悔い改めへと導かれることを
夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる
と語っています。人が恐怖、おびえを感じるのは、神が耳を開かれたしるしで、神はこの方法を通して、人の心にご自分の教えを刻み込まれます。このような神のご介入がなければ、滅びしかないような邪悪な計画、わざ、高ぶりから人を離れさせるためです。神は人が自滅の道を選ばないように、夢を通して語られるのです。
もちろん、すべての夢が神の語りかけではないのですが、人には、不快な出来事や思いや感情を、潜在意識下という「秘密の部屋」に押し込み、自らを欺く習性がありますが、これら抑圧された現実が悪夢という形で表面化することになるのです。もし神が悪夢を通して人に語られるとすれば、それは、自己欺瞞、高ぶり、誇り、隠ぺいした否定的感情、特に憎しみや赦せない状態を潜在意識下にもち続けることによって自らを滅ぼさないようにとの警告なのです。

エリフは、ヨブの苦しみを、他の三人の友が責めたように不信仰の表れとしてではなく、ヨブ自身への神の語りかけであるとして説いていますが、これはまさにC.S.ルイスが著書「痛みの問題 The Problem of Pain」の中で表現した「私たちの喜びのとき、ささやき声で私たちの意識に語りかけてくださる神は、私たちの痛みには叫び声で語ってくださる。痛みは、眠っているこの世への神のスピーカーである」というアプローチでした。

ヨブ記33:19-28は
(神は)人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。彼のいのちは食物をいとい、そのたましいはうまい物をいとう。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる。そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちは殺す者たちに近づく。もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり…彼が神に祈ると、彼は受け入れられる…彼は人々を見つめて言う。『私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る』
と、人の苦しみ、痛みの瀬戸際で神がご介入され、魂の救いへと導いてくださることを語っています。心の苦しみのあまり、あるいは、病のゆえに食欲が減退し、健康障害から瀕死の状態に陥り、神を信じない人たちの死後の行く先「よみ」に送られるような危機にさらされるとき、そこに、忍耐の神の救いの御手があるのです。
人は生命や生活の脅威にさらされると、人生におけるそれまでの価値観や理解、願望が一瞬のうちに変えられることを大なり小なり経験しています。残念ながら、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」習性のため、状況が良くなるとまた元の世俗的な価値観に戻ってしまうため、神は、人を罪から方向転換させるため、このアプローチを何度も何度も繰り返さなければならないのです。

すべての人を憐れみ、救いたいと思っておられる神は、苦しみにある人が「だれか自分のために執り成してくれる者はいないだろうか」と救いを求めるとき、すでに救いの手段、福音が宣言されたこと、イエス・キリストによる救いがこの世にもたらされたことをその人に思い起こさせられます。救いを求める人が福音を受け入れ、神との関係が正されると、身体は健康を取り戻し、魂の健康、すなわち、心の癒しも起こるのです。救われた人は、健全な魂の実である「喜び」にあふれるようになり、この内なる心の喜びは、自分の上に起こった驚くべき神のわざを周りの人たちにも伝えたいとの内なる霊の促しに応答して、「キリストの証人」へと自らを変えていく推進力になるのです。エリフは最後に
見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる
と言い、人に苦しみを与えて鍛える神の明らかな残酷さは、人を正し救うためであり、神の愛の行為なのであると教えています。エリフの教えを要約すると、次のように言えるかもしれません。この世は罪を簡単に見過ごし、正しく裁くことができないため、どの人もこの世では、各自犯した罪に対して当然の懲らしめを受けていないので、愛の神は、各自にふさわしい懲らしめを与えることによって公義を実践し、罪を赦し救ってくださるのである、と。このようにエリフが諭した相手が、神が「義人」として評価されたヨブであることを思い起こすなら、私たち「罪人」は、自覚をはるかに超えて、知らないうちに罪を犯している救いようのない生き物である、と結論づけられるかもしれません。

ダニエル書4章には、バビロン王ネブカデネザルが自分の見た不可解な夢の解き明かしを、捕囚の身でバビロン王宮で仕えていたユダヤ人ダニエルから受け、実際に大変な試練を乗り越えて、ついには真の神ヤーウェを信じる者に変えられた赤裸々な信仰告白が記されています。
全世界を永久に自分の支配下に置きたいとの野心に駆られていたネブカデネザルが絶頂期にあったとき、幾つかの夢を見、その結果さまざまな幻想に悩まされ、威風堂々とした外見とは正反対に、心の内は恐怖におびえていました。冒頭に引用したくだりに記されているように、ダニエルの警告にもかかわらず、王がいつも考えていたこと、―握ったものを死守し、それ以上のものを独占したいという貪欲、自分を誇るおごり高ぶり― が思わず口をついて出たとき、忍耐の神の裁きのタイミングが訪れます。
警告を受けてから一年後のことで、ネブカデネザルは完全に理性を失い、人間界から追い出され、獣同然の惨めな生きものになり果てたのでした。在位中から、抑制のきかない憤りの発作に陥りやすい性質で、精神的錯乱状態にあった王は、だれでも経験する一時的な鬱に陥るというのではなく、本格的な強迫性障害の状態に陥ったのです。
天上から奈落の底に投げ落とされたような辛い七年間「七つの時」は、しかし、王が心底から神の摂理を理解し、真の神を受け入れるに必要なときでした。ネブカデネザルは、ダニエルが解き明かした通りにことが起こり、絶望的な試練を経て理性を取り戻したとき、自分に起こったことが神の語りかけであったことを悟り、権力と力の真の源である神を忘れ、無視する人生が、獣の一生に劣るとも勝らぬいかに空しいものであるかを公に証ししたのでした。王は王国、権力の座を取り戻し、
今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる
との神賛美に凝縮された信仰告白を、支配下「全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たち」に書き送り、おそらく最後の一年間を神の御旨に従って生き、主の御許に召されたのでした。艱難の先の確かな希望を与え、人間界で見捨てられた王の世話をし、最後まで支えたのは、おそらくダニエル、―自身、捕囚先バビロンで宦官として異邦人王に仕えながら、神に忠誠を尽くした苦難の「神の証人」― でした。

ネブカデネザルに起こったことには、預言的に終末末期に起こる異常事態が物語られているようです。人はだれも、文明の進化とともにこの世が人を満足させ、繁栄、達成、富をもたらし、平和と平等を約束する組織構築を通してついには理想的な楽園になると信じ、願ってきました。
しかし、この世の支配権を握ったのは、好戦的、専制的策略家で、相次ぐ世界大戦、市民戦争、国家や民族間の対立、過激派イスラム組織による暴虐の結果は、過激化するテロリズムや世界的犯罪で、一般社会でも結婚と家庭の崩壊、博愛主義や人道主義による神の摂理と掟のすげ替え、社会の無秩序化、神の領域を侵犯する科学的探求の是認等々、この世は、聖書が預言している通り確実に悪化、堕落の一途をたどっています。この先は、全世界的な精神錯乱状態なのです。
しかし、未信者、信者、世俗の世、教会を問わず、サタンの攻撃や揺さぶりにかく乱され、あるいは、神の懲らしめが下る背後には、必ず神の大いなる救いのご計画と希望があることをネブカデネザルの劇的回心は告げているのです。