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第288号  ルカの福音書9:1-6、:37-43、:46-56

キリストの福音宣教の転換期

キリストは十字架刑に掛かられるため、照準をエルサレムに向けられたとき、十二弟子に癒やしと除霊のための超自然的な力と権威を授け、迫害と艱難期の指示を与え、村から村への宣教に遣わされた…

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。「…人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。…
次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。すると、見よ。群衆の中から一人の人が叫んで言った。「先生。お願いします。息子を見てやってください。…霊がこの子に取りつくと、…打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたの弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」…しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。…
さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの見方です。」
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。…サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。そして一行は別の村に行った。   ルカの福音書9:1-6、:37-43、:46-56


ルカの福音書9章には、キリストのガリラヤでの宣教の最後から照準がエルサレムに移されるまでの過渡期の出来事が記されています。
十二弟子は、悪霊の領域と身体的病の領域に対処する霊的能力と、その力を行使する権威を授けられ、送られた者「使徒」として、村から村へと宣教に遣わされました。「神の国の到来」を告げることが彼らの宣教で、彼らが行う癒やしや除霊は、彼らの宣教が真正であることを証明するものでした。
人々が使徒を受け入れるということは、メシヤ(救い主)が神の国をこの地上にもたらされたことを受け入れるということでした。もし村人が使徒を受け入れなければ、村を出て行くとき「足のちりを払い落としなさい」と、キリストは指示を与えられましたが、これは、正統派ユダヤ教徒の間で異邦人の領域を訪問したとき行われる慣習で、神の裁きを警告する象徴的行為でした。一時的には神が沈黙しておられるように見えても、反逆する者に裁きは必ず下るのです。
しかし対照的に、もし受け入れるなら、使徒の「平安の祈りがその家に留まる」という御言葉(マタイ10:13)は、予測できない天災、人災の多い昨今、キリスト者はいつも主の守りを祈っていく必要があり、その祈りは聞かれるということなのです。

9章には、五千人に与えられた食事の奇蹟、キリストの内弟子三人が山上でキリストの変貌とモーセ、エリヤの出現による神の国を垣間見、天からの神の声「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」を聞いた超自然的体験が記され、キリストのガリラヤ宣教のクライマックスになっています。
四福音書のすべてに記録されている五千人に与えられた食事の奇蹟は、神に依存する信仰を弟子たちに生み出させるに十分でした。五千人は、ギリシャ語では男性への言及ですから、子女を含めれば一万五千人以上の大群衆で、このような奇蹟は神がご介入されなければ不可能ですが、そのとき、わずかな食物を分かち合おうと差し出した少年がいたことと、その愛の行為をきっかけに、キリストが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった」(9:16)ことに着目することは大切です。
同じように、終末末期、予測できない天災、人災にいつ襲われるか分からない危機の時代、キリストの神に向けての祈りは、いつも神に依存する必要を信徒に教えています。

ヘルモン山の近くピリポ・カイサリア地方でキリストは弟子たちに初めて、ご自分の究極的な使命「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(9:22)に言及され、弟子たちにご自分の弟子としての覚悟「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て日々自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」(9:23)を銘記させられました。
洗礼者ヨハネはキリストを「世の罪を取り除く神の子羊」として、イスラエルの民にメシヤ到来を告げましたが、まさに十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖う「いけにえの子羊」として紹介したのでした。
キリストは23節で、「神の子」となった信徒たちに次のステップ、「神の弟子」となることを教えられたのです。キリストの十字架上での贖いによって、信じる者はみな、過去の罪が赦され、「神の子」とされましたが、その後、キリストの弟子となる覚悟の道が続くのです。

ヘルモン山で起こったと思われるキリストの変貌の出来事は、ギリシャ語で「内からの変化」を意味する変容として描写されています。
モーセはイスラエルの民をエジプトでの隷属下から解放し、エリヤはイスラエルの民を偽りの神々の束縛から解放し、今、キリストは、罪のこの世を罪と死の奴隷から解放するためにエルサレムに向かおうとしておられました。
旧約の預言者モーセとエリヤが成し遂げた脱出劇の完成がキリストによって達成された暁には、キリストを救い主として信じた者はみな、栄光の神の国に入るのです。信徒も栄光の甦りの身体に変容させられるキリストの再臨時がその完成のときですが、黙示録にはその直前に、エルサレムにモーセとエリヤを思い起こさせる二人の証人が登場し、大いなる奇蹟と神の言葉で大宣教をすることが記されています。
キリスト再臨の道を備えるため、天界で最後の出番を待っているモーセとエリヤがこの終末末期に現れる二人の証人で、今日、そのときは非常に近くなっています。

ペテロが、天界のビジョンで見たキリスト、モーセ、エリヤを地上に留めるため、それぞれに「幕屋」を造ろうと提案したことは単なる思いつきではなく、このときはちょうどイスラエルの主の例祭「仮庵の祭り」の時期だったのです。
イスラエルの民が仮庵を建て、天空を仰ぎ、出エジプト後の荒野での放浪生活を思い起こし、祭りの期間を過ごす「仮庵の祭り」は、まさに仮のこの世から永久の神の国への遷移が象徴された主の例祭でした。
黙示録7:9-17には、この世の終わりの艱難期を経て天上に挙げられた大群衆の信徒が、主の御前で完成された救いを喜び、神をほめたたえている情景が預言的に描写されていますが、まさに、キリストによる御国の樹立を祝う「仮庵の祭り」の描写です。
今年は10月13日の夕刻から祭りが始まりますが、ゼカリヤ書14:16-18には、この祭りがメシヤの千年支配の御国で、地上の全諸国民によって祝われることが預言されています。

しかし、次から次へとこのように驚くべき奇蹟を目の当たりにして、まだ弟子たちでさえ、不信仰であることが、キリストのお言葉「いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(9:37)に反映されており、9章の後半には、キリストの真の弟子に要求される決断と覚悟が教えられています。
これは、9章冒頭に記されているように、直接キリストから力と権威を授けられ、神の国宣教のため村々へ遣わされた十二弟子が成功例ばかりではなく、除霊ができない現実に直面し、また、キリストの直弟子ではない信徒たちが除霊を成功させているのを見、不快に思う心の貧しさを露呈し、さらには、弟子たちの間で優劣関係を探る思いが渦巻いている現状をご覧になったキリストの個々人の生来的な罪の気質に対する悲しみの溜息でした。
共観福音書に記されている同じ出来事を比較すると、弟子たちの信仰生活に欠けていたのは信仰、祈り、断食であったことが分かります。神から授かった霊の賜物は自動的に実を生み出すというのではなく、個々人の神との親密な関係と霊的修養を経て発揮されるのです。

キリストはご自分が裏切りによって死刑に処され、地上を去られることを再度話され、その後の宣教を弟子たちが担うことを銘記させられましたが、そのとき生じるであろう派閥の問題、罪人の心に生じる比較「だれが一番偉いか」、「だれのミニストリーが優れているか」に対する答えを簡潔に示されました。
弟子たちの心の中には、自分たちこそキリストの直弟子で主流、他の信徒たちは傍流という誇りと思い上がりから支配欲が潜んでいましたが、キリストは「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの見方です」と、彼らを自流に誘い込み、自分のミニストリーを大きくすることではなく、ともにキリストのミニストリー、「神の国宣教」に努める重要性を教えられました。すなわち、神の力は神ご自身のイニシアティブにより、他のどのキリスト者たちを通しても、地上で顕されるという警告でした。

ルカの福音書では、キリストが天から遣わされた真正のメシヤであることの確証が伝えられた後、9章51節以降、人々がキリストの教えを受け入れるかどうか、信仰の決断をするか否かに論点が移っていきます。
もしイスラエルの宗教家たち、権威当局が福音を受け入れなければ、弟子たちに迫害が迫ることになります。生半可な信仰では信徒は迫害に耐えることができず、この世、―不動産、所有物、肉親、慣習等々、この世に属するもの― を選び、キリストを捨てることになりますから、まず、キリストは、迫害の危機に直面して弟子たちがどのように対処すべきかの心構えを教えられました。
信徒は、この世の人々が必要と思うすべてのものに対する執着心を除き、迫っている危機に今応答することと、「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(9:62)と、神の国に自らが確実に入ることを第一優先にすべきであるとことを警告されました。
この教えは、世界的にキリスト者迫害が急増している今日、イエス・キリストを受け入れ、信仰生活を送っている信徒が真剣に実践しなければならない警告です。

#288: SHEEP AMONG WOLVES,BE ON YOUR GUARD AGAINST MEN

SHEEP AMONG WOLVES, BE ON YOUR GUARD AGAINST MEN

Large Danish ministry led by Torben Sondergaard was forced to shut down after slanderous attacks from Danish government and news media...
These twelve Jesus sent out with the following instructions: ‘Do not go among the Gentiles or enter any town of the Samaritans. Go rather to the lost sheep of Israel. As you go, proclaim this message: “The kingdom of heaven has come near.” Heal those who are ill, raise the dead, cleanse those who have leprosy, drive out demons. Freely you have received; freely give. … ‘I am sending you out like sheep among wolves. Therefore be as shrewd as snakes and as innocent as doves. Be on your guard; you will be handed over to the local councils and be flogged in the synagogues. On my account you will be brought before governors and kings as witnesses to them and to the Gentiles. But when they arrest you, do not worry about what to say or how to say it. At that time you will be given what to say, for it will not be you speaking, but the Spirit of your Father speaking through you.
‘Brother will betray brother to death, and a father his child; children will rebel against their parents and have them put to death. You will be hated by everyone because of me, but the one who stands firm to the end will be saved. When you are persecuted in one place, flee to another. Truly I tell you, you will not finish going through the towns of Israel before the Son of Man comes. ‘The student is not above the teacher, nor a servant above his master. … ‘Whoever acknowledges me before others, I will also acknowledge before my Father in heaven. But whoever disowns me before others, I will disown before my Father in heaven. 3‘Do not suppose that I have come to bring peace to the earth. I did not come to bring peace, but a sword.             MATTHEW 10: 5-34.

In Matthew 10, Christ gave His 12 disciples instructions on how to go to the cities of Israel and preach the message: ‘The kingdom of heaven has come near.’
These 12 disciples sent out on this mission by Christ have come to be known as ‘apostles’. This chapter can be divided into three paragraphs; verses1-15, 16-23 and 24-42. The first paragraph is apparently addressed directly to the apostles. The second and the third paragraphs seem to be focused on all His servants up to today. The second paragraph in particular gives instructions to all believers in times of persecution including the future Tribulation period.

In the first stage of Christ's ministry, the good news of His kingdom was presented to Israel alone. The Gentiles healed by Christ were only an exception and Christ’s focus was not on them until Israel rejected her Messiah, Jesus Christ in Chapter 12. 
The supernatural, such as healing of the sick, raising of the dead, cleansing of the lepers, driving out of demons was regarded as signs of His kingdom, and so, miraculous powerful work would be credential of His followers up to this day. At the same time, Christ warned them of the fact that this world would persecute His followers until His Second Coming. So, His followers need to be equipped with faithful endurance and God’s Word during the time of persecution and Tribulation.

Today, worldwide persecution against Christians and Jews has already started and is progressing towards the final redemption by Christ, when faithful Christians are to be given a resurrected body. Recently on 19 August, I read an interesting report on Pastor Tiklak, who is known for his staggeringly effective evangelism, having led some 40 families to Christ, while Hindu radicals continue to persecute the Indian Christian population. 

Tiklak was captured by a violent group, mercilessly beaten and asked: ‘Will you leave your Christian faith or not?’ After he boldly insisted his faith in Christ, terrible persecution began. 
The attackers bound his arms and legs together and savagely beat him with a large stick. Then he was forced to crawl up a mountain path, hauling himself through stones and thorns. Eventually, Pastor Tiklak slumped to the ground, motionless and dead. His attackers tossed his body into a ditch until his flock located him and carried his body to their village. 
When a large crowd gathered to mourn his passing, Tiklak, who was thought to be dead, began to open his eyes and came back to life.

Even after this ordeal, Pastor Tiklak continued to engage in his ministry, which only resulted in further threats from the Hindu extremists. In the end, after they threatened to kill his entire family, he immediately left the village with his family and found refuge in another village. 
For the present, he and his family are still in the process of healing and restoration, and he ‘admitted that he was rather traumatized by his near-death experience, and was reluctant to share the gospel in the new town’ and also positively, ‘…we should not be disappointed as we are never forsaken. …God always has a plan for us’.


Another disturbing report of Christian persecution is against Danish Evangelist Torben Sondergaard, who founded a ministry in Denmark called ‘The Jesus Center’, where disciples from thirty nations have been trained. 
The most disturbing fact is that his large ministry was attacked by both Danish government agencies and news media organisations and that he was deceived by their disguise and in the end his ministry was charged for the ‘crime of quackery’. 
For their safety, he, his wife and two daughters had to leave for the US with only nine suitcases, and so far he and his family have applied to the US government for political asylum. 

As for accusers’ coordinated attack and their temporising approach, the article entitled: ‘Large Danish ministry forced to shut down after slanderous attacks from Danish government and news media’ on 18 Sep. puts it:
His ministry recently came under attack by the Danish government, which launched investigations by six different government agencies. After the investigations found no evidence of wrongdoing, Torben was approached by Danish reporters claiming they wanted to do a profile of his ministry, leading him to believe it would be a positive story, so he agreed to allow them to come and interview him. In addition to a film crew, the reporters secretly sent two undercover reporters to infiltrate the ministry, claiming they wanted to become Christians. One of them was even baptized at the Jesus Center as part of the ploy while the other pretended to be mentally ill (Line added). 
The writer of this article, James Bailey reveals how overwhelmingly this world has been controlled by the spirit of antichrist:
The spirit of antichrist controlling our mainstream news media …Wolves have been using our vulnerability to take advantage of us for centuries, infiltrating Christian organizations the same way they infiltrated Torben’s ministry. …In the United States, the federal government has even used this same infiltration tactic to control our news media.
In the end times, divine wisdom, counsel and discernment are essential for Christians.

リクの手紙と活動報告: 2019年9月1日

セキュリティーガードの訓練コースに参加、修了証取得


フルダミニストリーの皆さま

お元気ですか?
私たちの神さまが皆さまに、力と長寿を与えてくださいますように。

半年以上遅れてしまいましたが、
2018年12月、サパルでの私たちの伝道活動の写真をご覧ください。
写真の送付が遅れたのはメモリーカードを再設定する必要があったからです。幸いにもこれらの写真は残されました。
 
 
いつも私たちのためにお祈りとご支援をいただきありがとうございます。
サパルの人々は、クリスマスパーティーと新年会にプレゼントをもらい、ゲームを楽しみました。これは、クリスマスを祝った夜の写真です。私たちは子どもたちに日用品、ギフトを皆に手渡しました。
私の祖母ネナが写っています。

サパルへの道

サパルへは、徒歩で六時間かかります。道路はなく山道を行きます。ですからサパルで病気になったら病人を背負っていくか、馬に乗せるかします。そこは電気もなく、街灯もありません。
住民はフラッシュライト、充電可能なラジオ、スピーカー、マイクロホンを使用します。充電するために、近くの町パコクまで徒歩で六〜七時間かけて行きます。もし夜中に緊急事態が発生したら、近くの町に助けを求めることは困難になります。
2018年、サパルでの伝道活動の写真です。私たちの物とか食料、それにプレゼントをこのように馬で運びました。

パンパンガの野菜農園

ブラカンに戻ってから、私はパンパンガにある野菜農園へ手伝いに行き、とうがらし、キューリ、トマトを植えました。6月から7月にかけてです。
植える前に手作業で、草などの除去をして土地を開墾したので筋肉痛で大変でした。
7月の終わりから8月にかけて台風と豪雨で、その野菜農園が水に浸かってしまいました。でもほとんどの野菜には被害がなく神さまに感謝します。
どうかこの野菜が酷暑と雨季を乗り切ることができるようにお祈りください。

2019年新年会

サパルでの新年(2019年)の写真です。
子どもたちにはプレゼントを手渡し、親たちと若者たちとはゲームを楽しみました。

お願い

ところで、こんなこと(以下の要請)をお願いするのは厚かましいのですが…
農作業は人手がかかる厳しい仕事なので、皆さまにお願いしたいことは、私の郷里、ブネグ ラクブ アブラの農民に簡易トラクター(hand tractor) を与えていただきたいということです。
私たちの稲田は階段状になっていて、昨年、ブネグ アブラの役所が灌漑工事を終了してくれたので、神さまに感謝です。
ブネグではたった一つの農家がだけが簡易トラクターを所有していて、そこからトラクターを借りるとなると、一日あたり1,500ペソを支払わなければならず、 そんなレンタル料を払える農家はほとんどないのです。ですから、皆が助け合って人手をかけて農作業をしています。
問題なのは大部分の農民が高齢化していることと、ほとんどの若者は農業を引き継がないということです。もし機械が手に入れば農作業が楽になり、若者たちが農業を行うきっかにもなるのではないかと思うのです。
上の写真の手前は14,000ペソのディーゼルエンジンで、手前から二番目のが18,000ペソの一馬力エンジンでハンドトラクターに搭載されています。

農業はまさに人手間のかかる仕事です。
さらに悪いことに、カラバオ(フィリピン水牛)の数が減っています。
飼料となる良質な草が無いこと、異常気象による高温、突然の雨などが要因です。

このハンドトラクターが私の郷里の農民たちに大いなる助けとなることでしょう。少なくとも一台のハンドトラクターが神さまから与えられるようにお祈りします。私はパンガシナンでその価格を調べ、トラクターの値段、エンジンの値段、輸送費を別掲しました。

またさらに北のビガンでも価格をチェックしましたが、ここはさらに高い価格でした。
それも別掲しましたので、どうかこのことについてお祈りください。

この写真は、フィリピン製クリグリグ ハンドトラクターです。これは農家が買える最も手頃なトラクターで、水牛の代わりに稲田で使用します。28.000ペソでアブラまで五時間の輸送時間です。

セキュリティーガードの訓練コースを修了

最後になりますが、私は、7月末から8月の第三週までの二十一日間、セキュリティガードの訓練コースに参加しました。それは私にとって新しい経験で多くのことを学びました。
私はフィリピンの国家警察、その本部を見学し、退職した警察官や警備に関わる警官から講義を受けました。またそこで友人もできました。
訓練コース終了後、私は仮の免状をもらいました。
どこか良い組織でセキュリティガードの職が見つかるように祈っております。
皆さまにもお祈りいただければ嬉しいです。      

リク  リク  サバダオ

有名なコンピュータサイエンス教授の勇気ある証し、―ダーウィンの進化論を放棄―

有名なコンピュータサイエンス教授の勇気ある証し、―ダーウィンの進化論を放棄―  

2019年9月19日(木)

イェール大学コンピュータサイエンス教授、ダーウィンの理論信奉を放棄

「種の起源は、ダーウィンが正確に説明できないことである」と、有名なイェール大学教授のデイヴィッド・ゲレンターは、チャールズ・ダーウィンの進化論に対する彼の信念を公に放棄し、それを、事実上反証された「美しい考え」と呼んだ。

ワールドワイド・ウェブの予測で知られ、長年にわたり多くの複雑なコンピューティング・ツールを開発してきたゲレンターは、現在、イェール大学のコンピュータサイエンスの教授であり、ミラー・ワールド・テクノロジーズの主任科学者、全米芸術評議会の会員、多作作家でもある。

2019年5月に、クレアモント・レビュー・オブ・ブックスは、ゲレンターの『ダーウィンをあきらめる』という見出しのコラムを出版した。その中で、彼は、読書とダーウィンの進化論についての議論と、それに競合する理論、すなわち知的デザイン(ID)によって、彼がいかにしてダーウィンが間違っていると確信したかを説明した。
彼は特に、スティーブン・マイヤーの2013年の著書『Darwin’s Doubt』や、デビッド・ベルリンスキーの『 The Deniable Darwin』を引用した。

ゲレンター教授は先週[2019年9月第二週]出版されたスタンフォード大学のフーバー研究所とのインタビューで彼の見解を拡大した。
ゲレンターは、彼のエッセイでもインタビューの間でも、ID (知的デザイン)を完全に受け入れるには至っていない。

インタビューで、彼は、地球の設計に知性を見、ID支持者と全く争わないと、しかし、世界は混乱し、その苦しみがその良さをはるかに上回っていることを認めると、次のように語った。
「私の議論は、知的なデザイン(ID)を考慮せずに却下する人々とにある、それ(ID)は私の学界では、ある種の神学的な仕事として広く退けられているように思えるが、私には、それは絶対に深刻な科学的議論である」と。
インタビューで彼は、「実際には、それは心に浮かぶ最初の、最も明白で直感的なものである。それは知的に対処されるべきである」とも語った。

ゲレンターはマイヤーとベルリンスキーと一緒にインタビューを行い、三人はダーウィン説と新ダーウィン説が直面している問題に重点を置いた。ゲレンターは、イデオロギーの傾向が科学の分野を買収したと言った。
良い仕事をしている良い科学者がいる、「しかし、私たちには教訓的な話がある、それは、私たちの英語部門と歴史部門に起こったことが私たちにも起こり得るということである、めっそうもないことだが」と、彼は言った。

ゲレンターは、イェール大学の同僚の多くが好きで、彼らは友人であると言ったが、彼は「彼らの知的行動、彼らが出版したもの、そして、もっと重要なことに、彼らが学生たちに何を語っているかを見るとき、彼らに関するかぎり、ダーウィンの進化論は確かに科学的な議論を超えて進んでしまったようだ。あなたが知的にそれに挑戦しようものなら、あなたの生命はあなたの手中にある。あなたが挑戦しようものなら、彼らはあなたを破壊するだろう」とも言った。

また、「今、私は破壊されていない、私は生物学者ではないし、この話題に関する権威であると主張していない」と、ゲレンターはつけ加えた。
「しかし、私が彼らの行動を知的に、また、私が西洋の大学で見てきたことは、この話題に関する言論の自由からかけ離れたものである。それは、科学的、あるいは、知的な議論のどこにも起こらない [知的デザインに対する] 激しい、根源的な、怒りの、激怒した拒絶である。私はそれが何度も何度も起こるのを見てきた。」

ゲレンターは「私は彼らの宗教を攻撃しているが、私は彼らがみな頭をもたげているのを非難していない、それは彼らにとって大きな問題である」と、認めている。 

編集後記

ダーウインの進化論は科学ではなく「宗教」であることを、ゲレンター教授は指摘している!

科学者、特に生物学者に、進化論についての合理的な結論を導き出す自由がないこと、また、キャリアを守る脅威にさらされている生物学者たちの恐怖によって、ダーウインの進化論がかろうじて科学的合意を維持しているとの、ゲレンター教授の指摘は辛らつである。
しかし、科学者による学会内部からの義なる告発は、真理を求める者には大歓迎である。

聖書は、世の終わりにすべての真理が顕されることを告げているが、昨今、これまで隠されてきた物事が善悪を問わず、明らかにされてきている。
隠れているものであらわにされないものはなく、秘められたもので知られない、明らかにされないものはありません。(ルカ8:17)
ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、この言葉を秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。』…ダニエルよ、行け。このことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。(ダニエル書12:4、:9) 

真理は終わりのときまで封じられているが、必ず明らかにされる

生涯、真理を探究した物理学者アイザック・ニュートンについて、
英国の物理、天文、数学者であったアイザック・ニュートンは聖書の中に秘められている真理をすべて解明しようと努めた一人であった。
十七世紀の偉大なる科学者ニュートンは微積分法、万有引力の法則、光の粒子説等を提唱し、古典力学の基礎を築いた近代科学の確立者であることはあまりにも有名であるが、神の言葉に秘められた真理探求に傾倒した信徒であったことはほとんど知られていない。

自然界は神と神の栄光を顕わしていると信じたニュートンは、「この最も美しい宇宙体系は、高度の知性を持ち、力ある御方の支配の下でこそ、維持されることのできるものである」と語り、真理の宝庫である聖書『神の言葉』の解明に後半生を没頭させ、終末に関わる預言を記しているダニエル書とヨハネの黙示録の注解書を残したのであった。
ユダヤ人がこの世の終わる前に聖地イスラエルへ戻ることと、世の終わりは西暦2060年以降にならなければ起こらないという終末に関する預言的洞察を残しているが、その根拠は、神聖ローマ帝国が西暦800年に樹立された後、3.5年×360年=1260年を経ると、2060年になることから割り出されたものであった…

英国国教会の教理や方針には賛同できなかったニュートンは、「聖書が包含している明らかにされた真理体系は、宇宙体系のようだ。まだ普通の目からは封じられているが、時代とともに、その源が神にあることが顕わされてきている」と語り、神が創造された美しい宇宙の法則を探求する一方で、聖書に秘められている真理探求にも全身全霊を投入したのであった。
ニュートンにとって科学体系、信仰体系は相反するものでは決してなかった。宇宙にも、聖書にも神の卓越したデザインが反映されている、その素晴らしさに驚嘆したニュートンの残した遺産、帰納的聖書解釈は、この終末の終わりのときに、多くの人たちの目を開かせるために、神があらかじめ備えておかれたものであったのかもしれない。

神の霊の満たしを受けたA姉の証し

飢え渇く者に注がれた神の霊

ジョン師、クリス師を迎えて  令和元年8月31日(土)

                          
☆ジョン師、クリス師を迎えての集いは、クリス師の賛美指導で始まりました
☆天と地の隔ての壁が打ち破られ、天が地に下る主のご臨在の中、参加者は心を一つにして、各々の自国語と異言で、メロディーも各自自由に、賛美と祈りを主に向けてささげました

☆ジョン師のメッセージの主題は「教会像、教会のあるべき姿」についてでした
教会は、大きく次の四つに特徴づけられます
1.神の軍勢:個々の信徒は戦士
2.神の家族:個々の信徒は兄弟姉妹
3.キリストのからだ:個々の信徒は一つのからだのかけがえのない構成員
4.キリストの花嫁:個々の信徒は永久にキリストとともにある

☆メッセージの後、自ずと「御霊の賜物」―個々の信徒に与えられることが約束されている、教会を建て上げるために不可欠な賜物― に焦点が当てられ、多くの質問が飛び交いました
☆その中で、「異言の解き明かし」について、ジョン師は興味深い体験を話されました
 ✫フランスの教会で、異言を語っている人の解き明かしをジョン師が英語でし、それが英語からフランス語に通訳されることによって、教会の人たち全員がその異言を理解することができたという証しでした
☆異言の解き明かしが本当に主からのものであると確信できるのか? という質問には、内住のキリストの促し、内なる衝動によってそれは分かる、しかし、もし、確信がなければ、口をつぐめばよい、黙ればよい、との明快な返答でした

☆主からの霊の満たしに飢え渇く思いで、空手でやって来た参加者はみな、四、五時間余に亘る神の家族の交わりのひとときを満喫して、新たな再会のときに思いをはせ、帰途に着きました
☆集いの最後に、八十六歳のA姉がクリス師の祈りの申し出、「異言が授けられるように祈りましょうか。求める神の子に主は惜しみなく賜物を与えてくださいます」を受け入れ、参加者もともに異言でしばらく祈ったところ、A姉は、「口の中がむずむずして、舌が動いているよう、言葉がたまっている感じ」と答えられ、一同、A姉が「異言」を受けられたことを確信しました

☆「口を開けて、声を出す練習を少しすれば、異言はあなたのものです」との励ましを受けて、A姉は帰られた
☆その日から、A姉には「異言」がとめどもなく流れ出るようになったのです

編集後記

日本でのお仕事の合間を縫って、「クァハール」に駆けつけてくださったジョン師、クリス師との再会、二年半ぶりの集会は、主のご臨在豊かな、国境を越えた神の家族が一つになったすばらしい交わりのときとなりました。

恵みの集いを主に感謝し、A姉に起こったすばらしい神のご介入を振り返ったとき、主は、A姉に「異言」の賜物だけでなく、A姉を通して、ヨエル書2:28の御言葉
その後、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
の成就を見させてくださったことを確信しました。

このヨエルの預言2章26-29節は、二千年前、イエス・キリストが昇天された十日後のペンテコステの日に、父なる神が約束された聖霊が、エルサレムに巡礼に来ていた多くのユダヤ人たちの眼前でキリストを信じる人たちに下られたことで、その預言の成就が始まったと、解釈されています。
キリストの再臨が非常に近い、終末末期の今日、この預言の成就が全世界的に起こり、個々の信徒が、キリストの軍勢を構成する預言的民としての油注ぎを受けることが期待されています。
預言の最終的成就が身近なところでも起こり始めていることは、主の再臨の近づきのしるしです。

A姉の夢

8月31日の集いが始まる直前、A姉はその日の朝見た不思議な夢の話をされました。
6月に最愛の夫を亡くされた後、信仰に強く生きておられたA姉でしたが、身体の半分がもぎ取られたような大きな損失、寂しさに次第に圧倒されるようになっておられました。

そのような折、31日の朝、そろそろ起きなければと夢うつつ思っていたとき、眼前近くに初めて、故N兄が現れたのです。びっくりして、でも夢の中で目を閉じたまま、いつもの
ように「何?」と尋ねたとき、夫の横に女性のような人物が控えめに立っているのに気がつきました。夫は何も答えず、現れたのは顔だけでしたが、横に立っていた人物は非常に高い声で、意味の分からない言葉を語り続けていました。

最初、その人物が女性だと思ったのは、声が高いことと、顔にふさふさした茶色の髪が覆いかぶさり、実際、足元まで見たわけではないのですが、ひざ下にまで届くようなクリーム色の長い外衣を着ていたからでした。しかし、目が細く、たくましい肩の男性的な人物は、いかにも、聖書に登場する、人の姿で現れる「御使い」のようでした。
二人とも消え、A姉は夢から覚めました。

いったい、この夢に何か意味があるのでしょうか…

この日の集いの最後に、A姉が「異言」の賜物を受けられたことと、同日朝のA姉の夢とを照らし合わせたとき、この出来事に解釈が与えられたように思いました。
A姉は夢を通して、人が神に向かって話す言葉、御使いも話す「異言」(コリント人第一13:1)を受けなさいとの許可を、故N兄から与えられたに違いないという解釈です。
故N兄が、異言を話している御使いとともに突然、しかも、絶妙なタイミングでA姉の早朝の夢に現れたということは、まさにそのことを示しているかのようでした。

N兄はだれよりも熱心に聖書を学び、揺るぐことのない信仰に生きられた数少ないキリスト者でした。しかし、御霊の賜物「異言」に関しては理解できず、受け入れることに抵抗を感じておられました。
夫に従順なA姉は、御霊の賜物を全面的に受け入れ、機があれば受けたいと求めておられたのですが、N兄の機嫌を損ねてまで賜物を望むことは差し控えておられたのです。

天界の主の御座の回りでは、四六時中、新しい歌、メロディー、種々の異言による賛美がささげられているのを、天のパラダイスで、肉の身体はなくなっても霊と魂で体験しておられるN兄は、夢を通して最愛の妻A姉に、御霊の賜物「異言」を求める許可を与えられたに違いありません。
天界の神の御座の周りは、四六時中、数えきれない多くの異言で口々に祈りと賛美がささげられている想像を絶するにぎやかな場所なのです。

また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った…『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。』(ヨハネの黙示録5:11-13)
後日、A姉に伺ったところ、A姉自身、そのように感じておられ、夢の意味の確証が得られたとのことでした。
集いが閉会近くになったとき、クリス師が、A姉の心の思いを見通したかのように「異言を受ける祈り」を申し出られたとき、A姉の心はときめいたのでした。クリス師の申し出を
A姉は躊躇なく受け入れ、ご臨在の主が求める者に賜物を与えてくださったのでした。

天の御使いに関しては、漫画や絵画で聖書的ではない天使像が広まっているため、御使いには翼が生えていると信じられているようですが、御使いは人よりはるかに大きい男性的な体つきをしていて、あるときは人の前に現れ、時には、ビジョンや夢に登場するようです。
翼が生えているのは、天界で主の御座の前にはべっている不思議な生き物や、ケルビム、セラフィムなど、特殊な御使いだけに限られているようです。

また、実際に御使いの歌声を聞いた多くの人たちが、御使いの声は人の音域を越えた非常に高い、金属的な響きであると証ししています。
A姉はまさしく聖書的な御使いを夢の中で見たのでした。

終末の末期にすべての人に注がれる、と約束されている御霊の満たしを受けられ、A姉は今、寂しさを乗り越え、もっともっと御使いに現れてほしい、主の御用に当たりたいとの新たな希望に燃えておられます。
ハレルヤ!

Mary Jane のミニストリー活動報告:2019 年6月から7月

建設中のリバーサイド  サンマルセリノ  ザンバレスの教会兼多目的建物


2014年、FFNチームと平野牧師が当地を訪問した際、リバーサイドのアエタ部族のキリスト者は、自分たちに牧者と教会が必要であることを訴えました。
五年後の今年、神さまは祈りを聞いてくださいました。
私は有機農法でマニー アスぺレックのミッションに出会いました。
写真中央のグレーのTシャツを着たマニー アスペレックと白のTシャツを着た牧者デニスと協働して、私はリバーサイドに住むアエタ部族の伝道活動に関わってきました。
私たちは3月26〜28日、アエタ部族の人々に有機農法の訓練を行ない、4月と5月にはそれを実践に移しました。その後、教会建設にとりかかりました。
写真でマニー アスぺレックは、建設中の教会兼多目的建物を指さしています。5月の終わりから建設を開始し6月の第三週に完成しました。

6月

私たちは6月の第二週、カワグ  ザンバレスのアリエスの家族が植えたバナナ農園を訪問しました。
彼らは118本のバナナを2018年6〜7月に植えました。これは彼らのバナナ農園の現在の写真です。

写真、右下はサンイシドロ  サンノゼ  デルモンテ  ブラカンにある私たちのバナナ農園です。
私たちは昨年、六十八本のバナナを植えました。この8月には土地の境界に沿ってバナナの苗木をさらに植える予定です。

6月29〜30日

6月29日に 多目的建物がオープン。完成したリバーサイド  サンマルセリノ  ザンバレスの多目的建物の写真です。

6月30日

6月30日、日曜日に、ここで最初の教会礼拝が行われました。
礼拝後、私たちは子どもたちに種々の品、両親たちには古着を手渡しました。
私はまた、若い人対象の信徒訓練を受けた五人のアエタ部族の若者たちに、教会で牧者ビク(サンフェルナンド  パンパンガ出身)を助けていくようにと話しました。
牧者ビクは妻と息子と一緒にこの教会に常駐します。
私はまた、アリエスとレア(私たちは彼らのバナナ売買の商売を助けています)にも、牧者ビクを手助けすることを依頼しました。
つばの長い海老色の帽子をかぶっているのがレアです。
彼らはリバーサイドから20km離れたカワグ スビクに住んでいますが、今では毎日曜日、このリバーサイドの教会礼拝に出席しています。

礼拝後

6月30日の礼拝後、品々や古着を手渡したあと、私たちは2019年4月から始めた有機農園を訪ねました。
ブサングサングの畑は、モデル畑になっています。黄色いTシャツを着ているのがブサングサングで、彼はナスや根菜類の野菜を栽培しています。
写真、左下はカワグにあるレアの畑です。

7月1日

私たちはパンパンガの畑(借地)に植えるため、とうがらしの苗を100箱運びました。
6月30日の教会礼拝の後、家に戻り、その翌朝パンパンガにとうがらし苗を持っていったのです。
7月1日から7月の第三週までそこでとうがらし、アンパラヤ、ゴーヤ、トマト、そしてキュウリの苗を植えました。

ナブクロド パンパンガのアエタ部族の人々がこの畑での栽培を手伝ってくれます。収穫した野菜を、私たちはアリエスとレアに配達し、彼らがザンバレスの市場で売ってくれることになっています。

メアリー・ジェインの手紙 : 2019年8月1日

8月1日  封書

フルダミニストリーの皆さま                                                                         
心を込めてご挨拶します。

先日のemailで書きましたが、これからは私の伝道活動報告を毎月お送りしようと思います。ですから、一度にそんなに多くの量にはならないと思います。

すでにemailでお話ししたように、7月1日、教会兼多目的建物が三人の男によって攻撃されました。
牧者ビクは、建物の正面のドアと側壁を破損した後、それを止めに入ったレアの義理の弟を殴って怪我をさせた三人を赦しました。

7月20〜21日、私たちはパンパンガのナブクロドに住むアエタ部族を訪問しました。
そこは、4月22日に地震があり、多くのセメント造りの家が被害を受けましたが、竹でできた家は倒壊を免れました。私たちは救援物資と、子どもたちにお菓子を持参しました。
そのとき、ミカエルとデクスターの家族にも会え、喜びでしたが、彼らのその後の生活はそれほど変わっていません。ナブクロドの役所は、彼らが山岳地帯に住むのは危険だとという理由で、彼らをバターンに移住させたいのですが、彼らはリスクを覚悟の上で、移住を拒んでいます。私たちはそこでは教会兼多目的建物を建てることができません。
それは、そこにはイスラム教の信者が住んでいて、アエタ部族をイスラム教に改宗することに熱心なためです。

7月27日にブラカンのデュマガット部族を訪問予定でしたが、台風の風雨と雷雨で実行できませんでした。そのかわり、カワグのアエタ部族を7月27〜28日に訪問しました。
私たちはアリエスとレアーの家に滞在しましたが、そのとき、分かったことはルソン島でのバナナの供給が少ないということです。
クイリノ郡からのバナナ供給が十分ではなく、バナナを得るためには二週間ほど待たなければなりません。ザンバレスには、バナナ大農園がほとんどないうえ、少量生産の貴重なバナナも、台風のために被害を受けました。同じことが、ブラカン、パンパンガや、その他の郡にもいえるのです。
私たちが植えたバナナは一旦実をつけたものの、枯れてしまい、結局は切り倒さなければなりませんでした。ですから、私たちはパンパンガで他の野菜生産をすることをアリエスとレアのために考えており、良い収穫を得ることができるように祈り、期待しています。

7月27日、台湾に近い北部の島バタネスで地震があり、八人が亡くなり多くの住民が入院し、住居が倒壊しました。今、政府と大統領が被害について調査中で、復興には何ヶ月もかかる見通しです。

さて、私たちの同労者リクは警備員になるための訓練を始めました。彼は、読み書きができない小学校卒の若者が農場などで働くことができるように、彼らを助けたいと言っています。
以上が私たちの最近の伝道報告です。

愛をこめて、メアリー  ジェイン

第287号  ヨシュア記3:7-17

『ヨシュア記』から学ぶ神の「救い」の全局面、―勝利、所有、安息―

『黙示録』に記されている終末末期の神に逆らうこの世の連合軍の「ひな型」はヨシュア記に… 預言的洞察を告げる神の言葉『聖書』の学びは未来への備え…

主はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとに一人ずつ、イスラエルの部族から十二人を取りなさい。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」
民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。  ヨシュア記3:7-17
ヘブル語(旧約)聖書の『出エジプト記』は、神の救いを基本的に束縛からの解放と見ていますが、『ヨシュア記』はさらに進んで、神の約束する救いの最も重要な局面を描いています。神の救いには勝利と所有と安息が伴われることを教えているのです。すなわち、ヨシュア記は、イスラエルの民がカナンの原住民を征服し、カナンの地を所有したことで終わっていますが、エジプトでの隷属下からの解放をはるかに超えた神の「救い」の全局面、―勝利、所有、安息― を、神ご自身が成就してくださったとして描いています。

「主は救い」の意の名、ヨシュアは、「イエス」のヘブル語表記で、『ヨシュア記』には、キリストの初臨、―ご降誕― によってもたらされた「救い」の完成、すなわち、キリストの再臨で地に具現する神の国に至るまでの信仰の戦いの「ひな型」が記されています。救われた者が信仰の第一歩を踏み出すヨルダン川越えは、主ヤーウェを頭とする神の民の軍勢が、いよいよ約束の地の所有と祝福の人生への入口に立ったことを象徴しているのです。

キリスト者にとっても、キリストによる救いには勝利と所有と安息が含まれ、したがって、再臨の主を待ち望む現時点では、信徒にとって神の安息に入る約束がまだ残っているのです。
私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(ヘブル人4:1)
と、御言葉を信仰で実践しなかった信徒たちの例を挙げてパウロが警告したように、ヨシュア記の記録は、キリストの福音を受け入れ、救いに入った信徒が背信に陥り、裁かれ、安息に入れないようなことが決して起こらないための覚えです。

ヨシュア記では、敵や武器のことに全く触れられておらず、ただ神の言葉「みおしえ」が唯一の武器で、御言葉の斉唱と暗唱が奨励されたことが1章に記されていますが、これは神の軍勢の戦いを特徴づける特記すべきことといえます。まさに神が勝ち取れと命じられる戦いは、パウロが
悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人6:11-12、下線付加)
と教えたように、人の力、この世の武器ではなく、神の力によってしか征服できない霊の戦いなのです。

3~4章には、ヨルダン川越えとカナンでの最初の宿泊地ギルガルに設置された十二個の石の詳細が記されています。ヨルダン川越えは約束の地への境界を渡ることであり、ちょうど出エジプト時の「紅海越え」に類似する意義深い出来事です。すでにイスラエルの神の恐るべき力を聞き知っていたカナンの原住民はイスラエルのカナン入植を非常に恐れていました。
ヨシュア記の著者は「紅海越え」に次ぐこの劇的な出来事を描写するのに、重複して語る「上書き」の技法を用いています。すなわち、3章で一気にヨルダン川越えの結末までを語り、4章でもう一度、一連の出来事の幾つかを取り上げ、詳述、展開させていくという技法です。そのため、4章では3章で語られた出来事の途中で起こった、川底からの石、川越えの成功談、民が渡り終えた後、水の流れが完全に元どおりになったこと、主の力強い御手の証しとして宿泊地ギルガルに積み上げられた石の話が、強調的に再び記されているのです。

今月は、3章に焦点を当てて、非常にユニークなヨルダン川越えのメッセージから洞察を得たいと思います。神はカナン入植に備え、二つの覚えを語られました。まず、これは聖戦であること、次に、この聖戦に携わるためには、民自身、自らを聖めなければならない、の二点です。
イスラエルの民は「契約の箱」に先導されてヨルダン川を渡り、カナンの地に入ります。この箱はレビ族の祭司たちだけが担ぐことのできる聖なる箱、神のご臨在の象徴です。この箱は、神のご臨在の目に見える象徴であると同時に、十戒の二つの石の板を収納する場所です。約束の地に入植というイスラエル史の重要な時点にさしかかったイスラエルの民にとって、この箱の存在は、敵陣に向かう神ご自身の指導力への信頼と、未踏の地に向かう民の確信の拠り所として重要、かつ、必要でした。

天界に実物がある「幕屋」の聖具の中で一番重要な「契約の箱」には主の御座が象徴されており、この箱が民の前方、隔てられた距離のところを祭司に担がれて移動するということは、安息の地へと先導される主への敬意が払われるべきことと、神の奇蹟的なご介入を民が背後に立って見る必要があるということでした。
文頭に引用したくだりには、征服すべき七部族のカナン原住民が挙げられていますが、ヨルダン川東岸ですでに三部族を征服して、モーセの指揮下、二部族半のイスラエルの民に異邦人の王たちの割り当て地が与えられたことから、神が聖絶を命じられたカナンの部族は全部で十部族でした。信仰の戦いの『ひな型』が記されているヨシュア記のカナン人十部族は、黙示録に記されている終末末期、主の再臨直前に神に逆らう「十の王国」のまさにひな型ともいえます。
神が永久の所有を約束された「エレッツ イスラエル(イスラエルの地)」の嗣業を認めない諸国民が今日に至るまで中東不和を引き起こし、昨今、イスラエルの四方の国境からの同時攻撃の脅威が日増しに高まっていますが、これらの諸国民が、黙示録で「十本の角」(黙示録12:3ほか)に象徴されているのです。
➪『一人で学べるキリストの啓示:ヨハネの黙示録の預言』参照

戦闘力を備えたカナンの部族、すなわち、この世の勢力に対抗すべく、約束の地征服に向かうイスラエルの民が銘記しておく必要があったのは、いったいだれが力ある真の神か? ―イスラエルの神か、バアルやアシュタロテに象徴されるカナン人の偶像神か―、と、地の所有を正統的に主張できるのはだれか? ―主ヤーウェか、カナン人か― の二点でした。神は、ご自分が大自然をも支配しておられることを、水をせきとめる奇蹟を通して、また、水の過酷さを克服する神こそ大地を所有する真の神との当時の通念に訴えて、ご自分こそ全地、全諸国民の主であることを立証されたのでした。
「紅海」において、また、ノアの時代の大洪水において、さらにさかのぼれば、天地創造時に示された超越的な力をこのヨルダン川越えでも起こされたのでした。したがって、出エジプトの出来事を聞き知っていたカナンの原住民は今、自ら恐るべき神の力を目撃することによって、また、四十年前の紅海横断の出来事を経験していない新しい世代のイスラエル人も全員、眼前で神のみわざを見ることによって、主への確信を新たにすることができたのでした。

イスラエルの民がヨルダン川を渡ったのは「第一の月の十日」、すなわち、ニサンの月の十日で、奇しくも、イエス・キリストがエルサレムに勝利の凱旋をされた受難週の日曜日はちょうどイスラエル暦のこの日でした。
イスラエルの民がヨシュアを導かれる神に従って信仰の戦いを始めたように、新約の民も、先導されるキリストに従って信仰の戦い、―勝利者として神の国の報酬を所有し安息に入る― を始めたのです。
13節に明記されているように、この時期は春で、ヘルモン山の雪解け水でヨルダン川が死海に注ぎ込む「アダム」と呼ばれる地点は水かさ、水流が増し、川の幅も深さも最大になるため横断が危険な時節でした。しかし、ヨシュアは
見よ、契約の箱を。全地の主が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしておられる。(下線付加、11節は邦訳では「見よ。全地の主の契約の箱が…渡ろうとしている」)
と、神のご臨在、先導を民に再度銘記させ、水があふれるヨルダン川に信仰で突入するよう勇気づけたのでした。イスラエルのカナン征服は、ヤーウェがもはやイスラエル民族、地域だけの神ではなく、「全地の神」であることが知らされる劇的な出来事になったのでした。2章に記されているように、これはまさに、異邦人でありながら、ヤーウェが天地の神であることを認識し、イスラエルの偵察隊を助けたカナン人ラハブの信仰告白でした。

民全員がヨルダン川を無事渡り終えるまで、祭司たちが「契約の箱」とともに干上がった川床の真ん中に留まったということは、このことが単なる自然現象ではなく、神が御目的のために引き起こされた出来事であったことを明らかにしています。「契約の箱」は、神ご自身が川の一番危険な場所に立たれ、民とともに信仰の戦いを導いてくださったことのしるしでした。パウロは
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人第一10:11)
と、この世の武器ではなく、神の言葉が終末末期の信仰の戦いに直面している信徒に必要であることを明確にしています。

#287: MAINTAINING PEACE FOR HIS NATION IS GOD-APPOINTED KING’S ROLE

MAINTAINING PEACE FOR HIS NATION IS GOD-APPOINTED KING’S ROLE

A newly disclosed documents have revealed the fact that the late Japanese Emperor Showa was a convinced pacifist and how much he opposed the World War Two by every possible effort... Moses’ law made the king’s role and responsibility clear in that a God-appointed king should not be a warmonger...
Then Solomon stood before the altar of the LORD in front of the whole assembly of Israel, spread out his hands towards heaven and said: ‘LORD, the God of Israel, there is no God like you in heaven above or on earth below – you who keep your covenant of love with your servants who continue wholeheartedly in your way. …And now, God of Israel, let your word that you promised your servant David my father come true. … and when a prayer or plea is made by anyone among your people Israel – being aware of the afflictions of their own hearts, and spreading out their hands towards this temple – then hear from heaven, your dwelling-place. Forgive and act; deal with everyone according to all they do, since you know their hearts (for you alone know every human heart), so that they will fear you all the time they live in the land you gave our ancestors. ‘As for the foreigner who does not belong to your people Israel but has come from a distant land because of your name – for they will hear of your great name and your mighty hand and your outstretched arm – when they come and pray towards this temple, then hear from heaven, your dwelling-place. Do whatever the foreigner asks of you, so that all the peoples of the earth may know your name and fear you, as do your own people Israel, and may know that this house I have built bears your Name. 1KINGS 8:22-1KINGS 8:22-23, :26, :38-43. 
When you enter the land the LORD your God is giving …you say, ‘Let us set a king over us like all the nations around us,’ be sure to appoint over you a king the LORD your God chooses. He must be from among your fellow Israelites. …The king, moreover, must not acquire great numbers of horses for himself or make the people return to Egypt to get more of them, for the LORD has told you, ‘You are not to go back that way again.’ He must not take many wives, or his heart will be led astray. He must not accumulate large amounts of silver and gold. When he takes the throne of his kingdom, he is to write for himself on a scroll a copy of this law… It is to be with him, and he is to read it all the days of his life so that he may learn to revere the LORD his God and follow carefully all the words of this law and these decrees and not consider himself better than his fellow Israelites and turn from the law to the right or to the left. Then he and his descendants will reign a long time over his kingdom in Israel.            DEUTERONOMY17:14- 20. 

When the construction of Jerusalem Temple was completed, King Solomon stood before the altar of the LORD and prayed with worship and praise to God. His prayer included seven petitions: 1. God’s continual presence and protection, 2. His forgiveness of trespasses, 3. His forgiveness for sins causing defeats from enemies, 4. His forgiveness of sins that would bring on calamity, 5. His people’s victory in battle, 6. His people’s restoration after captivity, and 7. His mercy for God-fearing foreigners. Solomon, recognising that God’s ultimate purpose is to be known by all nations on earth,

so that all the peoples of the earth may know that the LORD is God and that there is no other (1Ki.8:60), 

dedicated the temple to Him as His footstool in the presence of all the congregation of Israel. Moses’ law made the king’s role and responsibility clear in that a God-appointed king should not be a warmonger, worshiper of mammon and philander, but instead, he should revere the only God of all nations, who foremostly revealed Himself to Israel. As long as Solomon lived according to His commands, his life would have been blessed by God and there would be peace on the land.

The same principle could be applied to every kingdom on earth, if her king/leader is willing to obey God’s will because every nation has been placed under God’s blessings and curses by the Noahide principles written in Genesis 9. 
On 26th September this year, Sanhedrin is to host the first conference of 70 Nations, which is to take place on the anniversary of God’s creation of the world. “70” represents the seventy nations which came out from Noah as written in Genesis 10, and God established the borders of the world based on the seventy children of Israel who went down to Egypt according to the Sanhedrin. 
The conference is to bring together all of the nations under the common belief in the sanctity of the Bible and the sanctity of all mankind, founded in the fact that God’s covenant was established with all of mankind through Noah. Every nation and ethnic group who accepts responsibility to join in a universal covenant of brotherhood of peace is invited to take their place in this Organization of 70 Nations. Through both covenants by Noah and Moses, God’s emphasis is solely upon “peace” among nations because all of mankind are precious members of God’s big family so that they should not be at war with one another.

On 19th August, an article put it: “Emperor Showa prevented from expressing remorse over war in '52, newly disclosed documents reveal” in which records detailing exchanges between the Japanese Emperor Showa and Michiji Tajima, the first grand steward of the imperial household Agency were newly disclosed. The Emperor Showa is the grandfather of the present 126th Emperor Reiwa in Japan and he passed away in January 1989. He has always been held responsible for the war crimes in World War Two, especially by anti-monarchists. 
However, thirty years ago just after Emperor Showa passed away, I was informed by a certain pastor, who is very deeply related to the Japanese imperial family and who has long been waiting for a chance to release his book about the unpublished fact about Emperor Showa, and also Emperor Meiji (Emperor Showa’s grandfather) who had attended regular youth gatherings for Bible studies taught by Missionary Guido Verbeck in the last half of the 19th century.

This pastor emphasised in his sermon that Emperor Showa was a convinced pacifist and had opposed the world war by every possible effort but in the end the military authorities forcefully won his sealing for decisive action. Some Christians who acknowledged this fact have for long prayed over the day when the truth will be revealed in public as the Bible proclaims. This time has finally come. The disclosed document shows: 
… the emperor as saying, “If we reflect, we have all done bad things, so please write well and include in the upcoming speech the meaning that we must all reflect and not repeat them.” But Prime Minister Shigeru Yoshida, who was consulted by Tajima, opposed the emperor’s plan to publicly express regret and remorse…’, ‘…the emperor reflecting on the path toward Japan’s defeat, saying “no one could stop the military,” particularly by the time Hideki Tojo was serving as the country’s prime minister’, and ‘The draft speech, which mentions “deep shame” due to “my fault,” was estimated to have been written around the autumn of 1948, and indicated that he may have been planning to admit responsibility for the war and apologize to the Japanese people. A slew of other documents, including diaries of the emperor’s close aides, have shown the emperor was uneasy with Japan’s drift to war but was too weak to alter the course of events, and was in anguish in his final years for being blamed for his role in the war. …’
As history repeats itself in worldly terms, the current Japanese government is trying to remove “Peace constitution Article 9 of the war renunciation” enforced in 1947, which reflects Japanese successive emperors’ heart and also God’s heart, without considering its dreadful consequences. 
What Christians can do is to pray for God’s intervention for the continuation of this constitution.