Pages - Menu

第272号  使徒の働き4:4-35

「教会」の定義にまつわる興味深い英国史


「教会」の本当の意味は? 建物、教派、組織、制度、施設…? それとも、キリストの群れ、集まる信徒…のこと? 神の御旨ではない、人の手に成るものがすべて取り除かれる「神の裁き」に直面している今日、キリスト者は「神に喜ばれる礼拝」の真の意味を真剣に吟味しなければならない…

ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた。…彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、…あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。…「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、我々はそれを否定しようもない。しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」…
そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。…これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。…今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。

     使徒の働き4:4-35(新改訳2017)


西暦一世紀、イエス・キリストが十字架上で亡くなられ、埋葬され、三日目に甦られ、昇天された後、ユダヤ暦のペンテコステの日に、キリストの約束を守ってエルサレムに留まっていた信徒たちの上に、聖霊が下られました。この日以降、父の御霊であり、キリストの御霊でもある聖霊が、イエス・キリストを自分の罪を贖ってくださる「救い主」として信じ、受け入れた者たちのすべてに内住され、キリストの民が誕生しました。
この群れは「教会」と呼ばれるようになり、ほぼ二千年を経た今日に至るまで、キリストの福音、神の国の教えが、キリストの民、キリスト者を通して世界中に宣べ伝えられています。

キリストが直接教えられた福音を、甦りの主を体験した弟子たちや信徒たちが、聖霊の力に満たされて伝えた原始キリスト信仰の時代は、新約聖書が伝えているように、迫害の時代でした。しかし、聖霊に依存しなければ何もできない自らの弱さ、罪深さを知って日夜、罪を悔い改め、キリストを仰いでいた使徒、信徒たちを通して神は、この世の人々の魂を救う大きなわざ、―知者をも驚かせる大胆な宣教、癒やし、しるし、不思議― をなされたのです。
迫害によっていつも死に直面させられていた使徒、信徒たちにとって、自分たちの宗教王国を広めようという考えは毛頭なく、彼らはみな、ひたすら、キリストご自身が地上に戻って来られ、神の国を支配してくださることを待ち望む、再臨信仰に生きていました。

このことは、昇天直前のキリストと使徒たちとの会話に反映されています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」とキリスが話されたとき、使徒たちは「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねたのでした。
このときキリストは、使徒たちの質問に直接お答えになる代わりに、
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8、下線付加)
と答えられ、ご自分の再臨、―そのときキリストは、『ヨハネの黙示録』に預言されているように、この世を支配する王として再び地上に戻って来られる― の前に、まず、福音が全世界に宣べ伝えられなければならないことを示唆されたのです。

新約聖書が描写している原始キリスト信仰の時代のキリストの群れ、「教会」は今日の概念とは大きく異なり、信徒が家々に集まり、祈り、御言葉を学び、証しや所有物を分かち合い、助け合い、励まし合う共同体でした。内住のキリストによって生かされていた信徒がキリストの名によって集まり、御言葉を学び、主を賛美し、祈るとき、そこが「教会」でした。
今日の「教会」の概念は初代教会の原始キリスト信仰とは無縁で、ローマカトリック教会時代以降の産物ですが、そのことが英国の教会史に残されていたことが分かりました。「教会」の定義に関して、非常に興味深い実話を考察してみたいと思います。

十七世紀初頭にスコットランド王ジェームズ六世が、英国王ジェームズ一世になったとき、王は非常に堅固なキリスト信仰をもたらしましたが、カトリック教会に対する思いやりも持ちあわせていました。当時、ほとんどの聖書は、平信徒はおろか聖職者でも読むことのできないラテン語で書かれていました。
ジェームズ王は、臣下のだれもが聖書を英語で読むことができるようにと願い、プロテスタントの学者たち、―英国国教会の聖職者たちから反対派の非協調的な人たちまで、幅広い層の識者たち― を集め、聖書の異なった部分を各々の学者に割り当て、それらをまとめて、聖書の英語訳を完成させたのでした。これが、欽定訳聖書、あるいは、キングジェームズ訳聖書と呼ばれ、今日まで広く読み継がれてきた聖書です。

しかし、さまざまなグループの学者たちがよく連携して翻訳作業に携わった結果、最後まで意見が分かれ、一致を見ない言葉が一つありました。そこで、学者たちは、ジェームズ王に助言を仰ぎ、王の裁量に任せたのです。それは、ギリシャ語の“ἐκκλησία(エクレシア)”、で、新約聖書のギリシャ語原語では、「集まり」、あるいは、「会衆」、―特定の目的のために献身する人々の集まり― の意で用いられている言葉です。
反対派の学者たちは、この言葉を「会衆」と訳すことを望んだのですが、英国国教会の聖職者たちは、ローマカトリック教会の聖書と同じように、「教会」と訳すことを望んだのでした。裁量を任せられたジェームズ王は、英国国教会の聖職者たちに同意し、欽定訳聖書に訳語「教会」が採用されることになり、それ以降の英語訳聖書のほとんどは、この訳語を用いるようになったのでした。

このことから明らかなように、聖書のギリシャ語原語「エクレシア」には、今日、「教会」の概念となっている、建物、教派、組織、制度、施設といった意味合いは全くなく、ただ、キリストの群れ、集まる信徒のことなのです。キリストが定義されたように、
あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:19-20)
がまさに、真の「教会」の定義です。
このギリシャ語言語「エクレシア」は、ヘブル語では“קָהָל(クァハール)”で、神の御旨を伝達する手段として神が選ばれたヘブル語、ヘブル思想で「教会」の真意を理解することはふさわしいことだと思われます。

今日、「教会」の意味があまりにも広義になり、原形をとどめなくなってしまったことは憂えるべき恐ろしいことです。それは、
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:30)

とパウロが人造の偶像に満ちたアテネの町の人々に向かってメッセージを語ってから二千年近くも経った今日、まさに終末の末期、「教会」も含めた神の家が裁かれる時代に入っているからです。
正しい者たちがかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。(ペテロ第一4:18)

とペテロが警告した時代が文字通り今日だからです。

初代エルサレム教会がステパノや使徒ヤコブほかの信徒たちをすでに殉教で失い、ガラテヤの教会では、ユダヤ人からの迫害を避けるため、異邦人信徒たちさえ割礼を強いられ、背信への誘惑にさらされていた時代、厳しくなる迫害のさ中、特にユダヤ人信徒たちに向けて匿名で『ヘブル人への手紙』を書いたと思われるパウロは、個々のキリスト信徒が最後まで揺り動かされることなく、永遠に残るものとして留まることができるようにと、メッセージを送っています。
あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。…あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。『もう一度、わたしは、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは…敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。』私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル人12:25-29、下線付加)

は、神の御旨ではない人の手に成るものすべて、―この世俗の世に属するものだけでなく、「教会」と称する建物、教派、組織、制度、施設もすべて― が最後には焼き尽くされることになるとの厳粛な警告です。

#272: BIBLICAL DEFINITION OF LOVE FOR GOD IS TO OBEY HIS COMMANDS

BIBLICAL DEFINITION OF LOVE FOR GOD IS TO OBEY HIS COMMANDS

The U.S. Episcopal Church, the Most Reverend Michael Curry participated in preaching a sermon at the royal wedding of Prince Harry and Meghan Markle. His gospel message received universal praise among all people. ...
Dear friends, let us love one another, for love comes from God. Everyone who loves has been born of God and knows God. Whoever does not love does not know God, because God is love. This is how God showed his love among us: he sent his one and only Son into the world that we might live through him. This is love: not that we loved God, but that he loved us and sent his Son as an atoning sacrifice for our sins. Dear friends, since God so loved us, we also ought to love one another. No one has ever seen God; but if we love one another, God lives in us and his love is made complete in us.
This is how we know that we live in him and he in us: he has given us of his Spirit. And we have seen and testify that the Father has sent his Son to be the Saviour of the world. If anyone acknowledges that Jesus is the Son of God, God lives in them and they in God. And so we know and rely on the love God has for us.
God is love. Whoever lives in love lives in God, and God in them. This is how love is made complete among us so that we will have confidence on the day of judgment: in this world we are like Jesus. There is no fear in love. But perfect love drives out fear, because fear has to do with punishment. The one who fears is not made perfect in love.
We love because he first loved us. 20 Whoever claims to love God yet hates a brother or sister is a liar. For whoever does not love their brother and sister, whom they have seen, cannot love God, whom they have not seen. 21 And he has given us this command: anyone who loves God must also love their brother and sister.            1JOHN 4:7- 21.

On Saturday, 19th May, the royal wedding of Prince Harry and Meghan Markle in St George’s Chapel of the Windsor castle was broadcasted. Countless millions around the world watched the service, in which the first black presiding bishop of the U.S. Episcopal Church, the Most Reverend Michael Curry participated in preaching a sermon.
Bishop Curry started his passionate sermon on the burning love of God, addressing six hundred guests as “brothers and sisters”. He quoted some passages from “Song of Songs”: ‘…for love is strong as death, passion fierce as the grave…’, and also from 1Jn. 4:7-8, which was quoted at the beginning of this letter. Bishop Curry also referred to how Jesus Christ summed up the Moses’ law as the greatest commandment in the New Testament:
 Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind. This is the first and greatest commandment. And the second is like it: “Love your neighbour as yourself” All the Law and the Prophets hang on these two commandments (Matthew 22:37-40). 

He also referred to the words of the late Dr. Martin Luther King Jr.:
We must discover the power of love, the redemptive power of love. And when we do that, we will make of this old world a new world, for love is the only way. 

He, also referring to some others’ words, compared such love to one of the great technological discoveries of human history, i.e., power of revolutionary “fire”, and challenged countless viewers to see how the ‘redemptive power of love’ can change this tired world into a new world. Then he finished his 14 minute sermon with the following words:
My brother, my sister, God love you, God bless you, and may God hold us all in those almighty hands of love. 

This passionate gospel message of love given by Bishop Curry received universal praise among all people. How did he end up being selected to deliver a sermon in such an event, and to such a large audience? The answer may lie in his profile as a human rights activist. According to bbc.com, Bishop Curry is an advocate of the same-sex marriage, and LBGT rights, which of course was not mentioned in his address: 
He was ordained as a priest in 1978, is the presiding bishop of the Episcopal Church and has spoken on issues including social justice, immigration policy and marriage equality. …Bishop Curry defended the Episcopal Church's move to allow same sex couples to marry in church in 2015, which caused some churches to cut ties. The US Episcopal Church is one of only two Anglican churches worldwide that allow gay marriage in church - the other being the Scottish Episcopal Church.

Another contributing factor may lie in the changes that have taken place within the Church of England and the Royal Family. The Church of England seems to have radically changed even within a decade so as to be ready to break with tradition and formality, and fully adopt a modern style. In this royal wedding, a lot of American culture, which is the bride’s homeland was adopted, including gospel music, and the unprecedentedly liberal ceremony. 
Among the nation, there seems to be a strong and eager expectation for the Royal Family to become more open and relevant to society, and the modern wedding ceremony would have been welcomed by masses of people around the world.
On the whole, it can be said that if an opportunity is effectively used for presenting the gospel at such a large scale, any means is applauded and good for Christianity, quoting Apostle Paul’s message:
But what does it matter? The important thing is that in every way, whether from false motives or true, Christ is preached. And because of this I rejoice (Phi.1:18). 

However, a question remains as to how presenting a different God or a different gospel is justified. It might be a sign of the end times that the Christ and God being presented in many churches today is different to that which is presented in the Bible. For example, in chapter 5 of 1 John, which precedes the passage that is quoted at the beginning, John gives a clear definition of the “love for God”:
 This is how we know that we love the children of God: by loving God and carrying out his commands. In fact, this is love for God: to keep his commands. And his commands are not burdensome, for everyone born of God overcomes the world. This is the victory that has overcome the world, even our faith (Lines added). 

Which God had Bishop Curry preached?

英国滞在記 2018年2月~4月

生きるを考える  2018年5月

________________________________________

フルダミニストリーでは、キリストとともに歩んでいる(歩んだ)兄弟姉妹の生涯の
赤裸々な記録を「あかし」として、皆さまにご紹介しています。
今回、英国での二ヶ月間の滞在中、主にある多くの兄弟姉妹や、
執り成しをされている未信者の方々にお会いし、
✓ 主の御旨にかなった祈り、執り成しが確実に聞かれること、
✓ 祈りの交わりの中にいる兄弟姉妹たちが驚くほど強いきずなで結ばれていること、
✓ これが地理的隔たり、国家、民族、言語の壁や時空を超えた真のイエス・キリストの教会、
主にある兄弟姉妹の交わり、「クァハール」(ギリシャ語では「エクレシア」、「コイノニア」)であるとの確信を得ました。
主イエス・キリストにつながる者の群れは、まさに「主にあって一つ」です!
________________________________________

キリスト者の召名

使徒ペテロは「御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たち」、すなわち、キリスト者に対して、ペテロ第一1、2章で、次のように語りました。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるよう用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

と、キリスト者が「信仰の結果であるたましいの救い」をすでに得ているとの確約と、
あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の者とされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。…異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。…もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。…善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。

と、困難に耐え、最後までキリストに喜ばれる生き方を全うすることの勧めでした。

ペテロは、これがキリスト者の召名であることを明確にし、「万物の終わり」、すなわち、困難な時代に生きるために、信徒が

何よりもまず、互いに熱心に愛し合い」、「祈りのために、心を整え身を慎(む)(ペテロ第一4:7-8)                ―聖句引用はすべて「新改訳2017」―
ようにとの指示を与えました。

終末末期

今日、世界的に公共の場での宗教活動や宗教的勧誘とみなされる言動への規制が強化され、キリスト者にとって伝道がますます困難な時代、ペテロが語った「万物の終わり」に近づいています。
かつてキリスト教国といわれた英国も例外ではなく、ヨーロッパ諸国や米国と同じように、反ユダヤ主義、反キリスト的風潮が日増しに強まっています。少なくとも、メディアはその点を強調して報道しているようですが…

果たして…

当然のことながら、英国のキリスト教会も困難な時代に直面し、教会維持も大変に違いないと思っていたのですが、実際には、権威当局に逆らわず、定めに従っている限り、宗教活動は自由で、平日使用しない教会の建物を公共事業、健康産業や趣味、学習教室などに賃貸するなど、この世とうまく共存している教会像が印象的でした。
特に当世風なエレキバンド演奏によるゴスペル・ソングは、伝統的な賛美歌に代わって、多くの若者たちを魅了しており、これからの時代、教会はこの世をうまく取り入れていかないと立ち行かないかのようです。会衆の高齢化で、閉鎖に迫られている伝統的な教会とは対照的な新興教会の成長ぶりは日本でも見られ、これが世界的な傾向のようです。

英国での体験

しかし、今回、英国で体験したことは、このような外的な教会活動とは無縁に、本物のキリストのしもべたちの交わり「クァハール」、「コイノニア」が祈りのグループという形で、力強く存続していることの喜びでした。
祈りのグループには、近隣の主にある兄弟姉妹が所属教会とは関係なく、定期的に、あるいは、必要に応じて集まって来ます。緊急な集まりの場合、祈りが必要な兄弟姉妹の許にさっと駆けつけて祈り、急いでいる人はすぐ退席しと、行動に自由があります。同時に、迎える側も特別な用意や茶菓子などの配慮は一切必要なく、ただ祈られ、励ましを得るための集まりであるということです。このような祈りの効果は大きく、主が明らかな結果で答えてくださるので、祈り合うことは大きな励ましになるのです。

キリストが弟子たちに維持するようにと勧められた教会はこのような「家の教会」で、これからの時代、その真価をますます発揮していくのではないかと思います。

主にある兄弟姉妹のその後…

困難を乗り越え、イエス・キリストとの親密な関係に生きてこられた数人の兄弟姉妹たちの今日の祝福と、主が、執り成されている未信者の方々にどのように近づいておられるかの例を皆さまにご紹介したいと思います。

Yさん
「Yさんの証し」でその実直な信仰生活をご紹介している姉妹と、彼女の職場の社員食堂で山盛りのランチをご馳走になりながら、お話を伺いました。
上司の方が聖書を信じるキリスト者で、「聖書の学び会」を始められ、現在、Y姉妹をも含め、職場で毎週、二、三人の方がともに学んでおられるとのことでした。何という神の采配でしょう! 時機とタイミングを司っておられる神の完璧な巡り会わせに、新たな感動、驚異を覚えました。主に燃える兄弟姉妹の神探求は、この世の時世とは無縁に着実に進行しています。

Lさん
四年半前、咽喉癌末期と診断され、喉頭摘出、声帯除去の手術以外に生存の可能性がないと宣告されたL姉妹、彼女自身が祈りの中で示された詩篇107:17-22の「喜び叫びながら主のみわざを語れ」に、私たちも、そこに彼女に対する神の御心があると信じ、声帯除去手術以外の方法で彼女が生きる道が開かれますようにと、執り成しを始めました。
詳しい経緯は「フルダレター226号」英語欄226号でご紹介しましたが、L姉妹と夫のP兄弟の心の叫びと、私たちの執り成しに神は答えてくださり、現在、彼女は、十数人の医師団の中で彼女の手術中止に決定的な決断を下した一教授の画期的な成功例として大きく認められているだけでなく、公共事業のボランティアとして責任ある働きを任っています。
かつてこの世での仕事に全く就くことができず、資格取得に挑戦しても完成させることができなかったL姉妹は、今や主によって完全に変えられ、昨年の6月からは高齢者介護の仕事、―介護者の健康や身体を損ねることのない電動装置を用いての介護が民営の施設では普及― にも就き、入居者たちの間でとても良い評判を得ているとのことでした。
また、大病以前はどんなにレッスンを重ねても達成できなかった泳ぎがつい先ごろ三週間で簡単に泳げるようになったと、感動的に話してくれました。
主に信頼することによって死からの生還という大奇蹟を経験したL姉妹は今、巣立ちつつある二十台の三人のお子さんのいろいろな問題をかかえていますが、どんな辛苦にあっても神を信頼し続けたP兄弟とともに、困っている人たちに助けの手を差し伸べ、名実ともに信仰の人生を生きています。

JさんとGさん
二十数年、仲睦まじいおしどり夫婦として知られ、主にある兄弟姉妹のための執り成しの役割を担ってこられたJ姉妹自身が、離婚の危機に見舞われようとは想像だにしないことでした。しかし、夫の外泊は増え、離婚訴訟は避けられない見通しです。
聖書的に離婚は決して主の御旨ではないので、J姉妹は離婚に同意しておらず、姉妹の願いは夫の魂の救い、―主イエスへの完全な立ち返り― と、復縁です。このような危機、苦しみのただ中にあってもJ姉妹は、問題に遭遇しているほかの兄弟姉妹のために日々執り成しておられ、主にある愛の実践の信仰生活に何のかげりもないのです。今回も、フルダミニストリーのための預言的洞察を交えての執り成しと励ましをいただいて来ました。
対照的に、二十年来の離婚生活の間も復縁を信じ、祈り続けてきG姉妹は二年前、祈りがかない、現在、少し離れた場所に居を移し、キリストを受け入れ洗礼を受けた夫とともに、勝利の信仰生活、新生のクリスチャンホームを築き上げています。

Bさん
一年半前、東京で会ったB姉妹、N姉妹はまだ、キリストを「救い主」として受け入れていません。B姉妹のいとこのW姉妹の温かい配慮で、W姉妹、J兄弟宅で今回、姉妹がたとの再会が成りました。B、N姉妹がW姉妹宅に着く前、私たちは簡単に祈りました。「今回の再会が、B、N姉妹にとって神のご介入のときとなりますように。姉妹たちの心が開け、主を受け入れることができますように…」と。
祈りに応えて、主は姉妹たちとの再会を祝してくださり、素晴らしい語らいのときとなりました。
N姉妹は、ほとんど主を受け入れているようでしたが、B姉妹には最初、霊的な束縛、心のこわばりが感じられました。しかし、W姉妹の手作りのランチの後、J兄弟の入れてくださったコーヒーを飲みながらの打ち解けた語らいの後、B姉妹に解放が感じられことは嬉しいことでした。数日後に控えているひざの手術が成功するように、祈りの約束をして別れました。
ところが、手術後、回復時にB姉妹の動悸が急に激しくなり、救急車でロンドンの専門病院へ送られたとの連絡をW姉妹から受けました。寝耳に水で、全く予期しないことが起こったのです。しかし、医師に囲まれ、緊急、かつ、ふさわしい処置を受けることができたことと、この出来事の間、B姉妹が主の守りと祈られていることによる平安を感じることができたと、W姉妹に話したことは、まさに、私たちの祈りに対する主の答えでした。
その後、いろいろな検査を経て数日でB姉妹は退院し、現在は、二人の息子さんが昼夜、交代で面倒を見、彼女は自宅療養中です。「ひざの手術の後、だれも私の世話をしてくれる人はいないわ」、と、あの日別れるとき、夫に先立たれたB姉妹が寂しさからというより、あきらめを投げ捨てるように吐いて、W姉妹、J兄弟宅を後にした光景が思い出され、主は、人知を超えた不思議な方法でB姉妹の心の叫びにも答えられたのだと、祈りの力を新たにしました。

一瞬先に待ち構えている危険をいやでも意識せざるを得ない人生、―誕生直後から身体の細胞の死が始まり、死に向かって痩せ細っていく生命― を生きている私たちにとって、現在の年齢にかかわらず、今、決めておかなければならないことがあります。
それは今、身体が機能し、物事を分別する理性があり、自分の意思で選択する自由が与えられているときに、未来の行く先を確実にしておくことです。
B姉妹が、今、イエス・キリストを彼女を罪から贖う「救い主」として受け入れることができるよう、私たちの執り成しは続いています。

ジョン・パーカー師とクリス・ドーン師
英国、ダラム市のジョン・パーカー師とクリス・ドーン師宅の家庭集会では、私たち「クァハール」のために、また、日本の救いのためにいつも執り成してくださっている兄弟姉妹のお一人おひとりとお話しすることができ、感謝でした。
私たちも英国のため、彼らのために祈り、また祈られるという「祈りのきずな」で結ばれた相互関係は、まさにキリストを中心とした「三つどもえ」の力です。
一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4:12)
キリストは
だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか(ルカ18:8)

と問われましたが、主の再臨のときまで地上に残っている主の民がいるとしたら、祈りで固く結ばれたキリストの教会「クァハール」に違いありません。

英国ダラム市のエマヌエル教会
ジョン・パーカー師とクリス・ドーン師が所属するダラム市のエマヌエル教会は、会衆二百名で百人に及ぶ子どもたちに御言葉を伝授している理想的な家族教会です。ダラム市の工業地区の倉庫を買い取って教会に改装し、郊外にも支部教会を持ち、教会人口は確実に増えているとのことでした。
六人の長老、―ジョン・パーカー師もその一人― と牧者アラン師が教会を支え、定期的に幹部会を開き、教会運営に当たっています。この教会の底力は、個々の会衆の家庭を解放して定期的に持たれている家庭集会「小さな集まり」にあるようです。
この小さな集まりで信徒は賛美し、祈り、聖書を学び、ときには食卓を囲んでの交わりのときをもち、神の御旨を知り、分かち合い、励まし合い、成長しているのです。

デイビット・キャンベル師
このエマヌエル教会の創設者は、デイビッド・キャンベル師で、現在、カナダのオンタリオで
エマヌエル教会と同じ流れの教会の牧会にあたっておられます。
キャンベル師がダラム大学、大学院在学中に創設したのが、エマヌエル教会で、今日に至るまで、師は各地の関連教会を巡回訪問しておられます。キャンベル師がたまたまダラム市を訪問されたタイミングで、私もエマヌエル教会の幹部会に出席し、日本の救いのための執り成しをキャンベル師にもお願いできたことは感謝でした。

多くの主にある兄弟姉妹が日夜執り成してくださることは、日本の救いのためにかけがえのない力です。

帰国後の課題
日本では見られない「生き生きとした信仰生活」が少なくとも私が接した英国のキリスト者には息づいているのを見て、日本の救いのためには、日本の信徒一人ひとりが、もっとイエス・キリストの甦りの生命に躍動しなければならないことを衝撃的に感じて、帰国しました。
  
主のしもべ、フルダ

メアリー・ジェインの手紙と宣教報告 :2018年5月6日

バナナ農園開園に向けて、1月から4月までの四ヶ月間のご報告と5,6月の予定

主イエスキリストのお名前によって皆さまにご挨拶します。
以下、私のフィリピンでの2018年1月から4月初めまでの伝道活動を報告します。

私は腰痛をかかえ、引き続きマッサージ治療をしながら、この四ヶ月間、忙しい日々を過ごしました。
四月末に私たちは37,000フィリピンペソ(約74,000円)で中古のサイドカー付きオートバイを買いました。

アリエス、レア夫婦との出会い

アリエスとレアはカワグ、ザンバレス出身の夫婦です。バナナの配送と売却に携わっていましたが、差別待遇を受け、二月に失職してしまいました。そのようなとき、二ヶ月間の祈りの後、私たちとの出会いがあったのです。
このことを通して、神は私たちが計画している「バナナ農園」について、確信を与えてくださり、この夫婦が私たちが収穫するバナナの売り手となり、配送者となることを示してくださいました。

調達項目

そのために、以下五項目を調達する必要に駆られました。
1.1,500ccのオートバイ  28,000フィリピンペソ
2.そのサイドカー           9,000フィリピンペソ
3.三つの市場での年間認可料  7,500フィリピンペソ
4.二ヶ月間の倉庫料、貯蔵庫料(4月から5月)の先払い 4,000フィリピンペソ
5.1,650kgのバナナ買い付け金      30,750フィリピンペソ
合計79,250ペソ(約158,500円)が必要となり、四月末までに支払いを終えました。

サイドカー付きオートバイの購入

バナナ農園プロジェクトに取りかかるため、まず、4月13日にオートバイを買い、それにサイドカーを一週間かけて取りつけてもらい、4月21日に全額を支払いました。
倉庫、貯蔵庫は縦5メートル、横5メートルの広さで、4月27日に二ヶ月間(4月から5月)の前払いをしました。
四月いっぱい、私たちは、このバナナ農園プロジェクトのため、ザンバレスに滞在しました。スビク、カスティレノス、サンマルセリノの三つの市場の認可取得には一ヶ月以上もかかってしまいました。

サババナナの配送開始

先週の日曜日、4月29日、1,650kgの「サババナナ」がラガヤンバレー、イサベラ郡(ルソン島北部)から配送されました。そしてレアとアリエスが三つの市場へバナナの配送を始めました。最初の三ヶ月間、バナナの売れ行きが良ければ、彼らには持続的な収入が見込めます。
アリエスはカワグ出身のアエタ部族で、彼の妻レアはサンマルセリノ出身の半アエタ部族です。私は彼(ルツの一番下の弟)を2006年から知っていて、彼が2009年、2010年の職業訓練コースを受講の際、金銭支援をしました。

来年度のためのバナナの植えつけ

もうすぐ雨季に入りますが、私たちはバナナの木を植える計画をたてています。そして今月、バナナの苗木を買おうと思っています。計画が順調に行けば、私たちはイサベラあるいはラガヤンバレーからもはやバナナを買う必要がなくなり、カワグに住む150世帯のアエタ部族の収入となるのです。
さらに私たちは、ザンバレスに住む他のアエタ部族の牧者と、バナナ農園について協働できるかどうかを探索しました。というのは、彼らの信徒の中には真の農業従事者がおり、バナナ農園用の土地を貸してくれる可能性があるからです。
私はバナナ農園プロジェクトの可能性についての情報をまだパソコンに入れていません。私にとっては、このように手書きの方が簡単なのですが、パソコンに打ち込み終了次第、その資料をお送りします。

ナブクロドの地

ナブクロドの地についてですが、神はこの地を愛してくださり、今年の一月以来、私たちは定期的に当地を訪問し、先週(四月の最後の週)は子どもたちのVBS(夏季休暇聖書学校)を開きました。そして同時に、この地のアエタ部族農民の困窮をも見ました。
この5月5日、「希望のことば教会」と私たちは協力して伝道集会を開き、賛美と祈りをして、プレゼントを贈りました。この教会が福音伝道のほかに、もっと信徒育成に力を注ぐことができるようにお祈りください。
さて、リクは、伝道のため再び郷里アブラに帰りました。彼と彼の家族は明日、5月3日、徒歩でサパルまで行き、5月13日にはブネグに戻ってくるとのことです。そして5月末に彼は私たちの伝道所/農園に戻ってくる予定です。私は、彼が郷里に帰る際、サパル伝道のため、プレゼントとしてお菓子、学用品、コーヒー、砂糖を持たせました。

5月、6月の予定

私たちの農園/伝道所にはデュマガット部族のロビンがひとり残って、豚と羊の世話をしています。私たちは、今月(5月)末までに、6月にバナナ農園の開園を目指して土地の開墾をするつもりです。以上が私たちの最新のミニストリー報告です。

フルダミニストリーの皆さまのお知り合いの方や友人でフィリピンを観光したいという方はおられませんか?私の弟が、フィリピンでの数日間の滞在中の宿泊代無料の券(期限12月末)を持っています。もしそのような方がいらっしゃれば、歓待申し上げます。

最後に、私の家族についてですが、母は相変わらず車の保険の仕事をしています。父は農園で養生しています。私の娘は家庭での学習を引き続きしています。娘については、いろいろ問題があります。彼女のいとこや他の同世代の若い人たちと同じように、彼女はスマートフォンに夢中になっています。電話を切りなさいと言っても聞く耳がないのです。まるでスマートフォン中毒になっているかのようです。
サタンがこの若い世代を誘惑し、親の手の届かない、どうしようもないところに連れて行こうとしています。どうかこのことについてもお祈りください。

とりとめなく書いてしまいました。
皆さまのお祈りを感謝します。

多くの愛をこめて      メアリー  ジェイン

Mary Jane のミニストリー活動報告:2018 年1月~3月

2018年1月から3月にかけての宣教報告

1月14日

ナブクロド パンパンガにて
私たちは、子どもたちと年長者たちとともに賛美のときをもち、おみやげを渡しました

1月27日

パンガシナンで、「教会設立一周年」のお祝いをしました

2月14日

タウィド サパでのミニストリー
子どもとその親たちとの食事会、賛美のときをもちました
2016年に私たちは、ここを訪問し、ある家族を近くの教会に導きました
今回は再度の訪問です

2月27~28日

私はカワグ ザンバレスに行き、レアと彼女の夫と話しをしました
彼らは三つの市場(スビク、カスティレノス、サンマルセリノ)で、バナナを売っています
私たちは、バナナ売却の手助けをするということで、彼らと合意しました

3月6〜7日

ナグササ・コウブを四年ぶりに訪問しました。日本のFFNチームも2014年3月にここを訪問しました。子どもたちは成長して、当時三歳から四歳だった子どもたちは今はもう七歳から九歳です
マリセル(写真では赤い服の婦人)の店は大きくなりました
ここに住むアエタ部族は島をきれいにし、緑を保っています

Mary Jane のミニストリー活動報告:2018 年3月~4月

ブネグ ラクブ アブラの様子

3月12〜30日

以下は、3月12〜30日の、リクのアブラでのレポートです。
フルダミニストリーの皆さま、
アブラの人たちは生計をたてるため、川から採取した砂とセメントを混ぜてブリックを作っています。また、山を削って稲田にしています。毎金曜日の夜、私(リク)の家で賛美の集会を開き、祈り、聖書の学びをしています。

3月15日

私(リク)は、イポトと彼の祖母を訪問しました。
アブラの病院によれば、小児まひにかかった人の入院施設はアブラにはないとのことです。
イポトの場合は、彼の骨および関節が固くなっているので、長期にわたるリハビリが必要です。
私(リク)はイポトの祖母に、いくらかのお金と食料、雑貨を持参しました。

バナナ農園プロジェクト

4月7日

私たちはナブクロド パンパンガに戻り、バナナ農園用の土地の調査、そして農業を実際に行っている人々の調査をしました。確かにナブクロドのアエタ部族は実際に農業をしていて、山の斜面で根菜類や野菜を栽培しています。
私たちは、この地域でバナナ農園を開設したいと考えています。どうかそのことのためにお祈りください。
下の写真2枚はナブクロドのアエタ部族の家です。
バナナ農園開墾のためにお祈りください

4月8日

右の写真は、私たちがこの6月(フィリピンでは雨季)にバナナの木を植えたいと思っている土地で、まさにブラカンにある私たちの伝道所/農園の土地(4,000平方メートル)です。
左の写真はカワグ ザンバレスにある1ヘクタールの丘状になっている土地で、アエタ部族が私たちに貸してくれる予定になっています。
私たちは、これら二つの土地をこの6〜7月までに開墾する必要があります。
バナナの収穫が見込めるようになれば、カワグの150世帯の生計維持に寄与できることになります。どうかお祈りください。

4月9日

牧者バーナード アブロングの家族です。彼はカワグ・ザンバレスのジミー アブロングとは兄弟です。
彼はサンフェリペ、ザンバレスの住人であり、私たちは、このサンフェリペの広大な土地にもバナナと根菜類の野菜を栽培したいと考えています。
牧者バーナードと彼の仲間たちは、サンフェリペのアエタ部族の農民であり、雨季には、稲の苗を植えつけます。どうか、私たちが彼らと協力して、今計画しているバナナ栽培を永く継続できるように、お祈りください。

Yさんの証し その25

心の願いをご存知の主に導かれて

主は、Yさんのヘブライ語への情熱をご存じで、不思議な出会いが過去何度もあり、多忙な中、今もユダヤ人の方の指導で、Yさんのヘブライ語の学びは続いています
今回も、ユダヤ人の方との大きな出会いがありました
また、職場での「聖書の学び」が始まったことも、大いなる主の導きでした
ここに移動

4月14日(土)

今日は、中東部門で働いている正統派ユダヤ教徒のユダヤ人の女性職員の方とお話いたしました。去年、ケンブリッジ大学のジーサス・カレッジの東洋学(Oriental Studies)を卒業された方です。
なんと、2014年に亡くなったジーサス・カレッジの学生監(Jesus College、Dean)、―大学での講義のほか、カレッジ・チャペルの管理、聖職に当たり、学生生活相談に応じる職務― だった私の友人が、彼女を一年生のときに指導していたことがわかりました。彼女には、亡き友人が引き合わせてくれたような気がして、嬉しさで思わず涙目になりました。
彼女は、聖書のヘブライ語(Biblical Hebrew)の質問はなんでも聞いてね、と言ってくれました。
この出会いに、主イエスに感謝です。

Y

5月6日(日)

頌主…
ここ三日ほど夫の腸内出血が続いており、心配ですが、主が必ず癒してくださると信じて、このバンク・ホリデー(5月7日、月曜日、英国では銀行休暇)を心を静め、過ごそうと思います。

先週から、昼休み(三十分)を使って、アジア、アフリカ研究(Asia African Studies)の閲覧室で東洋キリスト教徒(Orient Christian)の開架書庫を覗いています。ヘブライ語関係の本も多く、主キリストの成し遂げられた御業の新たな側面・洞察を得るよい機会になればと願っています。

律と福音、適用過程は似ているが…

聖書の言葉を信じる者は、人生の艱難や世の中の理不尽な出来事に直面するたびに、福音の言葉を正しく解釈、消化し、状況に応じ適用し(艱難に立ち向かうための武器に変え)てゆく必要があります。
これは、「不正に立ち向かい、弱者を保護し、社会的衡平を確保する」法律の適用過程に非常に似ていると思いますが、福音の言葉の適用にあたっては、いつもイエスさまに問いかけられているように感じる別の基準があります。

それは、「(その)決断・行為に、『愛』があるか(あったか)、否か」という問いかけです。
主が示された「最も大切な掟」(マタイ22:37-39、マルコ12:31、ルカ10:27ほか)を挙げてみますと…
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(申命記6:5)
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(ルカ19:18)
しかし、わたしはあなたがたに言います。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためなのです。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからです。(マタイ5:43-48の44、45節、下線付加)
あなたがたに新しい掟を与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34、下線付加)

不可解・理不尽な出来事、不当な扱いに対して

私は非常に短気な性格なため、不可解・理不尽な出来事に出くわしたり、不当な扱いを受けるたびに、
復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。(申命記32:35/ロマ書12:19
や、ことわざの
天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず(Heaven's vengence is slow but sure)。
―天罰を逃れることは決してできない― という言葉が、大変恥ずかしいことに、マタイの福音書5章43-48節よりも早く頭をよぎってしまいます。
これらの言葉(上述の申命記32:35/ロマ書12:19と、ことわざ)は、留飲を下げるのには一時的に役に立つのですが、しばらく経って冷静に思い返すと、自分の愛のなさに愕然とさせられます。

申命記15章10節には、「あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与えるときは惜しんではならない(未練があってはならない)」とあります。
主の掟を行う際に、
「何事もしぶしぶ(grudgingly)行っていないか」、
「義務感からだけで従っているのではないか」、
「(その)決断・行為に、『愛』があるか(あったか)」
を問い直すたび、身の縮む思いで、穴があったら入りたい気持ちになることもしばしばです。それでも、こんな私を見放さず、見守り続け、変わらぬ愛を示してくださる主に感謝です。

わたしがあなたがたを愛したように…(ヨハネ13:34)
そして、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」天の父のような愛を、つまづきながらでも日々学び続けて参りたいと思います。

今後ともご指南何卒よろしくお願い申し上げます。
皆さまの上に主イエス・キリストの祝福が豊かにありますように。

Y

愛によって働く信仰

使徒パウロはガラテヤの信徒に
キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ人5:6)
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人6:9-10)
と語り、
まことの信仰は、この世の制度で得た資格や宗教的儀式を経ることによってではなく、愛に裏づけられるもので、家族、信仰の家族(主にある兄弟姉妹)、隣人(助けを必要としているすべての人)に惜しみなく善行を実践することに、真の愛が実証されると、教えました。
キリスト者の博愛に国境はなく、個々のキリスト者には善を実践し、平和を保つ社会的責任があるのです。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ人12:17-18)
上記三箇所の聖書引用は、「新改訳2017」から


「Yさんの証し24」へ戻る



メアリー・ジェインの手紙と宣教報告 :2018年4月14日

バナナ農園開園プロジェクトの事前調査を開始

4月14日

親愛なるフルダミニストリーの皆さま

先週と先々週は、ザンバレスに行ったり来たりの往復に明け暮れました。
その間、バナナ農園について以下のように調査をしました。
まず、
1. どのような土地で栽培するのか
2. バナナの苗木をどこで買ったらよいか
3. どんな有機肥料が必要か
4. 労働コストはどれくらいで、トラクターは必要か
5. バナナ栽培のための土地整備にどれくらい時間がかかるか
などです。

バナナ栽培の投資効率を高めるためには2ヘクタール(二万㎡)の土地が必要なようです。農園経営の初期段階では二種類のポピュラーなバナナの栽培が良いようで、「キャベンディッシュ」(輸出用で日本のスーパーで売られているポピュラーなバナナ)と「カルダバ」(フィリピンで一番多く栽培されている調理用バナナ、バナナチップスなどに使用)、あるいは、「サバ」(太いのが特徴の調理用の「サバ」は、フィリピンでは、煮たり揚げたりと代表的なおやつに使用)の栽培を考えています。
1ヘクタールに2000本のキャベンディッシュ、残りの1ヘクタールに600〜700本のサバを植えたいと思っています。

これから私はまたザンバレスに戻って、バナナの苗木が何本ぐらい調達できるのか、その値段はいくらか、有機肥料(鶏糞肥料)をどこで購入すれば良いのかなど具体的に調べなければなりません。そして全て調べた上でバナナ農園プロジェクトの提案書を作成して皆さんに見ていただきたいと思っています。2014年に訪問してくださった牧者、平野先生とそのチームが当地へまた来ていただき、開園作業などを手助けしてくだされば大変うれしいのですが…
というのは、2014年、平野先生とそのチームがフィリピン訪問した際、ザンバレスの多くのアエタ部族には教会の建物がない現状を見ていただき、また彼らが持続的な生計をたてるにはどうしたら良いのかなど、多くの助言を平野先生からいただいたからです。


私の家族についてですが、父はまだ農園/伝道所にいます。先週アブラから戻ったリクとデュマガット部族のロビンが、父と一緒に住んでいます。

最後に、今月は神さまが次の二つのことを私に教えてくださいました。
それは当地の牧者たちが私にお金を要求したり、借りたいと言ってきたとき、私はもっと賢く対応すべきであるということです。なぜなら、フィリピンの牧者たちは、献金を不正な目的で使ったり、いつも信徒、あるいは、友人に「お金を恵んで欲しい、貸して欲しい」と言って、神の伝道者としての証しを台無しにしているからです。
もうひとつは、いつも否定的なことを言う人たちや不平を言っている人たちの言うことにいちいち耳を傾ける必要はないということが示されたように思います。そのような人たちはいつも他人の欠点を見つけ、失敗するにきまっているなど、否定的なことばかり言うからです。しかし、神さまは本当に真実な方です。

多くの愛をこめて   メアリー ジェイン

第271号  ヨハネ16:7-33

真理の御霊、聖霊の御働き、―明確にされた罪、義、裁きの定義―

今日、超自然的な出来事、奇蹟、癒し、しるし、超常現象などを体験することへの勧め、聖書預言の私的、拡大解釈、また、新しい啓示が神ご自身、聖書の預言者たち、使徒たちを通して顕されていると主張する預言者、牧者、教師たちが驚くほど増えている...

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、私は助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。』…
まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。…あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。…それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。』…
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』
ヨハネ16:7-33


キリストは、十一人の弟子たちと最後の晩餐を終えられた後、師亡き後の弟子たちの信仰の歩みを指示されました。そのとき、この二階の部屋での講話の直後に起こることが定まっていたご自分の逮捕、十字架刑による死、埋葬、甦りを経て初めて神と人との関係に新しい局面が開かれることを、キリストは預言的に語られたのでした。
冒頭に引用したくだりを含め、ヨハネの福音書14章から17章のキリストの別れの挨拶、最後のメッセージには、ご自分の真の弟子たちへの励まし、父が遣わされる助け手「聖霊」による導き、迫害下でどんなに苦しめられようと信仰の結果の永久の勝利と平安の確約が語られています。

一連の最後の晩餐のメッセージの中で語られた
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(14:6)
には福音が要約されています。すなわち、キリストは、ただ「道…真理…いのち」を教えるために来られたのではなく、ご自身が「道」であり、「真理」であり、「いのち」であられることを明確に宣言されました。まず、諸々の宗教はおろか、教会も聖礼典も儀式も人を真の神に導くことはできませんが、イエス・キリストにはできます。それは、キリストだけが「その道」(ギリシャ語では定冠詞付き)だからです。
次に、ご自身が真理であるとの宣言は、キリストこそ真理の基準、試金石であるということです。
三番目に、ご自身が生命であるとは、すべての生命、―もっとも下等な動植物の生命から、高等な霊的水準の生命に至るまで― の源がキリストにあるということです。キリストだけがすべての生命の源泉であるというこの明確な宣言は、この世の諸宗教、カルト、~主義のすべてを終らせることになります。「わたしが神への唯一の道である」と宣言されたキリストのみが、考古学、歴史、医科学、工学、情報学すべての領域で立証される(究極的にすべて立証されることになる)「救い主」だからです。
「永遠の滅び、死」から「永久の生命」への救いは人の手によって達成されるものではなく、ひとえに神の御手によって達成されることなので、この世に生まれた日から死に向かっているすべての人、―罪人― は、「救い主」を必要とするのです。

キリスト昇天後の信徒の信仰生活は、父なる神がキリストに代わる「助け主」として、ペンテコステの日に送られた神の御霊、聖霊の働きによって導かれ、今日に至っています。ユダヤ暦、教会暦では毎年「初穂の祭り」、―初穂としての「キリストの甦り」―、から五十日目の五旬節を「ペンテコステ」の祭りとして祝います。
2018年は5月20日(日)がこの祭り日で、ユダヤ教徒はこの日をモーセがシナイ山で十戒を授けられた日として、キリスト者は聖霊降臨、教会誕生の日として祝います。キリストはこの聖霊の導きによる新しい時代を教会の時代として、
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
と、人々が福音を受け入れるか否かで、各自の肉の身体の死後の行く末が決まることを明確にされました。キリストが天上の父の御許に戻られた代わりに、父の霊であり、キリストの霊でもある御霊が下られたことにより、この世の咎が証明され、この世は、罪、義、裁きの正しい定義を知らされたのです。
もはや言い逃れはあり得ず、この世の人々は、救いの手段として神ご自身が送られた御子、イエス・キリストを受け入れ、信じるなら永遠の生命にあずかる、―人類創造時の状態、神の本来の御旨に戻される― という「福音」への応答、二者択一の選択が迫られることになったのです。

まず、聖霊の御働きの一つは人々に罪、―キリストを信じることができない、自分に救い主が必要とは思わない、すなわち、不信仰― を自覚させることです。この不信仰こそ、聖書が語る神への不従順、「罪」(単数表記)なのです。
初代教会の時代の多くのユダヤ人指導者の「罪」は、ヤーウェが送られたナザレ人イエス・キリストをイスラエルのメシヤとして受け入れることができなかったことでした。聖霊による覚醒なくして、この世の人々が自分の罪に気づくことは決してないのです。ですから、キリストは
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
と、聖霊降臨後の明確な罪の定義を語られたのでした。

次に、
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
と、キリストは聖霊が来られることの大きな意義に言及されました。十字架上でキリストが達成される行為を神が容認される結果、「罪人がキリストを信じる信仰によって義と認められる」という画期的な救いがもたらされることになり、聖霊降臨はその証しとなるということでした。実際、「神の義」が、キリストの犠牲の死によって、キリストの救い、―贖い― を信じるすべての者にもたらされたのです。
この神の恵み/恩寵による「罪人の信仰義認」をパウロは
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人第二5:21、下線付加)
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ人3:24-26、下線付加)
と、説明しています。神の御前に受け入れられる義とは、人のよい働きや努力、献身に依存するものではなく、キリストの十字架上での犠牲の死によってのみ達成されることのできるものでした。また、キリストの昇天は、キリストの贖いの行為が父なる神に認められたことの確証で、その結果、聖霊が下られたのでした。

三番目に、キリストは
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
と言われ、キリストの十字架上でのサタンに対する勝利、―逆説的に、死による勝利― の意義を、単なる戦いの勝利というのではなく、裁きが執行されたことに力点を置いて語られました。十字架の意義は、サタンがこの世にもたらした罪の身体、肉が十字架上に打ちつけられることによって、神の公義が執行されたということでした。キリストは、肉とは無縁の朽ちない永久の身体に甦られ、サタンに完全に勝利されたのです。
このように、十字架上でサタンが裁かれたので、キリストの甦り以降、肉の身体でこの世に生まれ、キリストを受け入れない者はみな、サタンとともに滅びることが宣告されたのです。

キリストは、さらに
真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れ…やがて起ろうとしていることをあなたがたに示す。…
と言われました。人々に真理を理解する力を与えてくださるのも、聖霊の御働きで、聖霊の力なくして人は何ごとも達成できない、理解できないことが教えられたのでした。ここでキリストは未来のキリスト者の道や啓示のすべてに言及されましたが、それらすべては、使徒たちの手による文書に収められ、主の再臨までに必要な全啓示がすでに聖書に封印されたものとみなされます(テモテ第二3:14-17、ペテロ第二1:19-21、黙示録22:18-19)。
このことを銘記することは非常に大切です。
聖書が至る所で警告している異端が、パウロがアジヤで宣教し、設立した教会に瞬く間に広がったように、今日、超自然的な出来事、奇蹟、癒し、しるし、超常現象などを体験することへの勧め、聖書預言の私的、拡大解釈、また、新しい啓示が神ご自身、聖書の預言者たち、使徒たちを通して顕されていると主張する預言者、牧者、教師たちが驚くほど増えているからです。
しかも、
みな、そうすることで自分は神に奉仕している。(ヨハネ16:2)
と純粋に信じているようで、今日はまさに「選民も惑わされる」時代だからです。

#271: WHAT ARE THE “EVEN GREATER THINGS” JESUS PROMISED?

WHAT ARE THE “EVEN GREATER THINGS” JESUS PROMISED?

There are worrying tendencis in recent popular church movements where this biblical truth is ignored and instead there is much more enphasis on enticing experiences, dellusion and false hope of revival, and rulership of the entire world by spirit-filled Christians here and now in this world...

‘Do not let your hearts be troubled. You believe in God; believe also in me. … Jesus answered, ‘I am the way and the truth and the life. No one comes to the Father except through me. If you really know me, you will know my Father as well. From now on, you do know him and have seen him.’ Philip said, ‘Lord, show us the Father and that will be enough for us.’ Jesus answered: ‘Don’t you know me, Philip, even after I have been among you such a long time? Anyone who has seen me has seen the Father. How can you say, “Show us the Father”?
Don’t you believe that I am in the Father, and that the Father is in me? The words I say to you I do not speak on my own authority. Rather, it is the Father, living in me, who is doing his work. Believe me when I say that I am in the Father and the Father is in me; or at least believe on the evidence of the works themselves.
Very truly I tell you, whoever believes in me will do the works I have been doing, and they will do even greater things than these, because I am going to the Father. 13 And I will do whatever you ask in my name, so that the Father may be glorified in the Son. 14 You may ask me for anything in my name, and I will do it.
‘If you love me, keep my commands.
 And I will ask the Father, and he will give you another advocate to help you and be with you for ever – the Spirit of truth. The world cannot accept him, because it neither sees him nor knows him. But you know him, for he lives with you and will be in you. … On that day you will realise that I am in my Father, and you are in me, and I am in you. Whoever has my commands and keeps them is the one who loves me. The one who loves me will be loved by my Father, and I too will love them and show myself to them.’ …
But the Advocate, the Holy Spirit, whom the Father will send in my name, will teach you all things and will remind you of everything I have said to you. Peace I leave with you; my peace I give you. I do not give to you as the world gives. Do not let your hearts be troubled and do not be afraid.       JOHN 14:1-27.


Christians commemorate ‘Pentecost’ as a feast observed seven weeks after Easter Day. On this fiftieth day after the resurrection of Jesus Christ in the first Century, the Holy Spirit descended upon the apostles and they began to speak in ‘other tongues’, i.e., many languages they had not previously learned. Due to this miraculous intervention of God, all the people there of different nationalities and languages could hear their own languages and understand the main point of the gospel on the day. The thrust of the messages heard on the day can be summed up as follows:
(1)an explanation of the events which happened in Jerusalem,
(2)the gospel of Jesus Christ; His death, resurrection, exaltation and descent of the Holy Spirit
(3)repentance and baptism in His name. The Pentecost in 2018 falls on Sunday, 20th May.

On the night He was betrayed and arrested, Christ taught His disciples about the Father’s promise of the Holy Spirit who was to come after His death. In the passage quoted above, Christ comforted His disciples and instructed them of the way of the Spirit. His emphasis in the whole discourse in the upper room is on love, and the definition of love is to obey God’s Word:
Anyone who loves me will obey my teaching. My Father will love them, and we will come to them and make our home with them. Anyone who does not love me will not obey my teaching. These words you hear are not my own; they belong to the Father who sent me (vs.23-24, Line added).

This is the essence of faith in Christ.

Christ taught that the indwelling God within Him is doing His work in vs.10 and11. and that the same can be applied to the faithful followers of Christ. In verses 12 to 15, He taught that whoever believed in Christ would do “even greater things” than the works He had been doing, by the indwelling Holy Spirit. The Greek word ‘ἔργα’ in verse12, translated as ‘the works’ in English refers to NOT miracles or wonders but the salvific work by the Messiah, and the following word of ‘things’ in English in the same verse simply does not exist in the Greek text. In the same way, ‘even greater things’ (Line added) is ‘μείζονα’ in Greek and it refers NOT to quality but quantity. In other words, verse 12 plainly tells us that we would see greater numbers of sinners converting until Christ’s Second Coming. This is in sharp contrast to the commonly held belief by the majority of evangelical and Charismatic leaders that this passage is interpreted as Jesus promising greater miracles, signs and wonders than ever in the last days.

In vs. 16 and 17, Christ referred to ‘advocate to help you’ or ‘counselor’ , i.e., ‘παράκλητος’ in Greek, in other words, ‘the Spirit of truth’, and He explained how God’s Spirit who lived with the disciples (‘παρ᾽ ὑμῖν’) before His Ascension would be transferred to Christ’s spirit who will live in them (‘ἐν ὑμῖν’) eternally. It is apparent in the context that Christ’s promise prerequisites for his followers’ wholehearted obedience to His commmands. i.e., not only accepting them but also keeping them, because this is the evidence of our love for Him as described above.
Christ assured His disciples that even if He left them they would not be led astray because the Holy Spirit within them would instruct them to the end. In the end of the discourse of Chapter 14, He assured His disciples that He taught everything they needed to maintain faith and peace in Christ to the end of the world. This is the main thrust of the gospel and we should not add anything to His teachings and promises.

There are worrying tendencis in recent popular church movements where this biblical truth is ignored and instead there is much more enphasis on enticing experiences, dellusion and false hope of revival, and rulership of the entire world by spirit-filled Christians here and now in this world, instead of calling out for Christ’s Second Coming from utter helplessness. They are more expectant of external miracles, signs and resources rather than depending on believer’s inner witness of the Holy Spirit. We must test everything by the Word of God, be it prophecy, healing, or miracles.