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第264号  エゼキエル書21:18-32

「いなずまのようにとぎすまされた」神の剣の光が空中を走るとき

世界中で相次いで起こっている大洪水、大地震、大規模な山火事、竜巻、魚、鳥、動物の突然の大量死、地の沈没と海の消失…いったい何が起こっているのか? 答えは聖書に…

ついで、私に次のような主のことばがあった。「人の子よ。バビロンの王の剣が来るために、二つの道にしるしをつけ、二つとも一つの国から出るようにせよ。町に向かう道の始まりに一つの道しるべを刻みつけておけ。
剣がアモン人のラバか、ユダ、すなわち、城壁のあるエルサレムに行けるように道にしるしをつけておけ。バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振り混ぜて、テラフィムに伺いを立て、肝を調べる。彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫び声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕らえて、彼らの不義を思い出させる。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたのそむきの罪があばかれるとき、彼が、あなたがたの不義を思い出させて、あなたがたのすべてのわざに罪が表れるようにするため、また、あなたがたが思い出すため、あなたがたは彼らの手に捕らえられる。悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。
人の子よ。預言して言え。神である主はアモン人と、彼らのそしりについてこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が、虐殺のために抜き放たれた。いなずまのようにして、断ち滅ぼすためにとぎすまされた。彼らがあなたにむなしい幻を見せ、あなたにまやかしの占いをするとき、その剣は汚れた悪者どもの首に当てられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。剣は、さやに納められる。あなたの造られた所、あなたの出身地で、わたしはあなたをさばく。わたしはあなたの上にわたしの憤りを注ぎ、激しい怒りの火を吹きつけ、滅ぼすことに巧みな残忍な者たちの手に、あなたを渡す。あなたは火のたきぎとなり、あなたの血はその国の中で流され、もう思い出されることはない。主であるわたしがこう語ったからだ。」            エゼキエル書21:18-32


冒頭に引用したエゼキエル書21章18節以降は、20章45節から始まる、神の裁きの四つの神命のうち最後の二つで、「剣の預言」と呼ばれるこれらの神命には、国家の罪のゆえに善人も悪人もともに滅ぼされる神の恐ろしい裁きが預言されています。
最初の神命をさらに具体的に告げた21章では、バビロン王が、南ユダ王国のダビデの血筋の最後の王を滅ぼし、メシヤが来るまでもはやイスラエルには王が即位しないことが告げられています。
この時点に至るまで、神は憐みの期間を延ばされてきたのでしたが、預言者を通して語られた、悔い改めよとの警告を無視し、聞く耳のない民には、もう裁き以外に何も残されていないのです。神が森の宮殿、エルサレムに向けて送られる裁きの火は、ここではバビロンの軍勢で、反逆の民イスラエルの敵は神ご自身です。

バビロン王ネブカデネザルは、陰謀を企てた二つの敵国の首都、アモン人のラバか、ユダのエルサレムか、どちらを先に攻撃しようかと作戦を練っています。古代の異邦人の国々では物事を決定するための常道であった、三つの占い法、―矢筒に入れられた矢を抜き、そこに記されている名で決める法、偶像テラフィムを霊媒にして伺いを立てる法、羊の肝臓を切り開き、生命の座「肝」に現れた筋、色、しるしを読み取る法― すべてを試み、エルサレムが選ばれました。
エルサレムの住民はそのようなうわさを聞き、警告されても、「神の都を敵が滅ぼすことができるはずがない」と、一笑に付します。しかし、預言者エゼキエルは、罪に汚れた民を目覚めさせ、聖めるために、民がバビロンに討たれ、国を失い、捕囚に連れられていくことを告げます。神を捨て、おごり高ぶり、自己中心に生きていた反逆の民は、当時、神の都エルサレムはただ名ばかりで、神の守りの覆いがすでに、エルサレム、ユダの地から取り除かれていたことに気がつかなかったのでした。

しかし、この厳しい刑罰によって、すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる」ようになる、この世の価値観が完全に覆される時代が訪れます。
廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする」と神が宣告された徹底的な廃墟からイスラエルの復興が実現するのは、究極的には、ダビデの血筋のメシヤ、イエス・キリストの再臨によるメシヤの時代です。これはこれから成就する遠未来預言ですが、近未来的には、ネブカデネザルによってエルサレム陥落、国家を失い、ユダ王国最後の王ゼデキヤがバビロンに捕らわれていく屈辱を味わうことで成就したのでした。その後も、イスラエルは、国外への四散を繰り返し、1948年の国家復興後も諸国家による敵視、戦争、迫害が付きまとう安住できない歴史を今日に至るまで続けています。

しかし、辛苦を経た後、メシヤの時代到来という明るい展望がユダに与えられた点が、エゼキエルが続けて預言したアモンに対する四つ目の神命とは大違いです。アモンが、ネブカデネザルがエルサレムを選んだことで安堵したのもつかの間、神はアモン人のユダに対する「そしりについてこう仰せられる」と、アモンにも裁きを下すことを宣告されました。アモンとユダはバビロンを相手に反バビロン同盟を結んでいましたが、実際には友好関係にあったのではなく、ネブカデネザルがラバの代わりにエルサレムを選んだことを喜んだのでした。

ネブカデネザルは廃墟のエルサレムを統治させるために総督ゲダルヤを選びましたが、このゲダルヤを陰謀で殺害したイシュマエルをアモンが支援したかどで、エルサレム陥落の五年後、アモンもネブカデネザルに滅ぼされ、この預言は成就したのです。
しかし、アモンの復興に関しては一言の展望も与えられず、その行く末は、イスラエルの宿敵エジプトに対するより厳しいものでした。このアモンの惨めな行く末に、「むなしい幻…まやかしの占い」、すなわち、偽預言や偽りの占いが関わっていたことを、エゼキエルは指摘しています。北イスラエル王国にも南ユダ王国にも偽預言者がはびこり、神の憤りが切迫しているときに、「平安、平安」と民をだまし、安心させていたことが至る所に記されていますが、アモンにも、ユダの苦境に乗じて偽預言でユダを攻撃、略奪することを促した占い師や偽預言者たちがはびこっていたのでした。
ここには、偶像の神々を信奉する占い師や偽預言者にだまされることの恐ろしさと同時に、神をないがしろにし、堕落したユダとはいえ、神が贖われた「神の民」を迫害、敵視する国家には、復興の見通しのない裁きが下されることが警告されています。

今日、世界中で起こっている世の終わりをほうふつとさせるような諸現象、災いは、エゼキエルを通して神が語られたこれらの神命を適用して、解釈することができます。神が送られる裁きの「剣」、森を焼く「火」には、戦争だけでなく、天災、人災も含まれ、神はそれらすべてを用いて、神を冒涜するこの世にメッセージを送られるのです。
実際、今年の八月から九月にかけて、要因が神の怒り以外に解明できないような惨事、―大洪水、大規模な山火事、大地震ほか― が世界中で相次ぎました。
8月21日に、米国大陸を横断する九十九年ぶりの皆既日食が起こった後、「太陽は世界の諸国民、月はイスラエルを象徴する」とみなすユダヤ教のラビたちが、天体現象、日食を通して神が語っておられると、米国に警告を告げていた現象や、クリスチャン預言者たちが予告していた災いが次から次へと成就しました。
ラビや預言者たちのメッセージは、もし予告された災いが近未来的に実現すれば、それは警告のしるし「前兆」で、悔い改め、神に立ち返ることを通してさらなる災いを免れることができる、さもなければ、致命的な大災害が下るというものでした(第31回「ヨシェルの学び」参照)。

イスラエルの古代預言によれば、「日食がエルルの月の初め(2017年のエルルの月の初日は8月21日)に起こるとき、それはとりわけ悪い前兆」と、警告されてきましたが、八月から九月にかけて相次いだハリケーンのうちハリケーン・ハービーがテキサス州ヒューストン市を襲い、大洪水で米国史上最大の損害をもたらしたのは、皆既日食の四日後の25日深夜から26日にかけてでした。
皆既日食が米国を通り過ぎたとき、大西洋上で発生していた三つの嵐がよもやハリケーンにまで成長するとは、気象関係者のだれも予想していなかったとのことでしたが、予想を裏切って、ハービーはメキシコ湾からヒューストンを直撃、ハリケーン・イルマはカリブ海諸島からフロリダ半島に上陸、ハリケーン・ホゼとハリケーン・マリアはプエル・トリコをはじめ西インド諸島を直撃し、前代未聞の大惨事をもたらしました。まさに、標的になった島々は最初のハリケーンで難を免れたと思ったのもつかの間、続くハリケーンで片っ端から滅多打ちにされるという事態に見舞われたのでした。

9月には7日にM8.1、19日にはM7.1、23日にはM6.2と三度に亘るメキシコ大地震が相次ぎ、マスコミを通して世界中の目が一連の恐ろしい出来事にくぎ付けになりましたが、エゼキエルの預言が示しているように、これらの出来事を究極的な目で見るなら、今後加速度的に全世界で起こることになる世界の破滅のほんの序の口に過ぎないということです。
今、難を免れたからと安心していると、次の瞬間、我が身に災いが降りかかるという、黙示録の警告
わざわいが来る。わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。(黙示録8:13)
が他人ごとではない時代が到来間近のようです。

預言者イザヤは、
地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ…地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。(イザヤ書24:19-20)
と、世界的な大災害の要因が、地上の住民の罪にあることを明確にしています。メキシコ地震で、各所に設置された防犯カメラが捉えた不思議な光は「いなずまのように…とぎすまされた」神の剣の光だったかもしれません。

「西欧に日食が起これば、偶像崇拝がはびこっていることのしるし」、「モーセ五書では忌むべきこととされている禁令が、キリスト教国と称する西欧諸国では合法化され始めている」、「米国式生活様式に安住しているユダヤ人はイスラエルに帰れ」等々、警告がされてきましたが、ユダヤ教では、「第七の月の十日」、すなわち、2017年は9月30日の「贖罪の日/ヨム・キプル」まではちょうど一年の罪を悔い改め、帳消しにしてもらう時期で、断食して祈り、神の御旨を行い、立ち返ることが促されています。

米国からメキシコ、西インド諸島にかけて起こった一連の大惨事はみな、イスラエル暦の「小さな悔い改めの日」、―今年は米国で皆既日食の起こった8月21日に一致― から「贖罪の日」に至る四十日間に起こり、神は全諸国民に警告のしるしを見、悔い改めて立ち返るよう呼びかけておられます。
善人も悪人もともに滅ぼされる究極的な災いは、諸々の罪が重ねられてきた地の聖めから始まっています。今、悔い改めなければ、贖いの約束のないアモンの滅びが日本に下るでしょう。

#264: ALLEGED PROPHECY BY SMITH WIGGLESWORTH

ALLEGED PROPHECY BY SMITH WIGGLESWORTH

Passion to a revival tends tocause a global spread of an alleged prophecy. How difficult it is to discern between the false and true prophecies, when a strong desire leads...

The righteous perish, and no one takes it to heart; the devout are taken away, and no one understands that the righteous are taken away to be spared from evil. Those who walk uprightly enter into peace; they find rest as they lie in death.
But whoever takes refuge in me will inherit the land and possess my holy mountain.’ Comfort for the contrite
And it will be said: ‘Build up, build up, prepare the road! Remove the obstacles out of the way of my people.’ For this is what the high and exalted One says – he who lives for ever, whose name is holy: ‘I live in a high and holy place, but also with the one who is contrite and lowly in spirit, to revive the spirit of the lowly and to revive the heart of the contrite. I will not accuse them for ever, nor will I always be angry, for then they would faint away because of me – the very people I have created. I was enraged by their sinful greed; I punished them, and hid my face in anger, yet they kept on in their wilful ways. I have seen their ways, but I will heal them; I will guide them and restore comfort to Israel’s mourners, creating praise on their lips. Peace, peace, to those far and near,’ says the LORD. ‘And I will heal them.’ But the wicked are like the tossing sea, which cannot rest, whose waves cast up mire and mud. ‘There is no peace,’ says my God, ‘for the wicked.’      ISAIAH 57:1-2, :13-21.

An influential prophet has recently proclaimed a worldwide revival in Australia. This kind of news is always more than welcome for Christians and prophecies of an impending revival is rampant around the world because it is the longing in Christians’ hearts. On YouTube, he prophesied an exciting message to Christians in Australia, the summary of which seem to be as follows.

All churches in Australia have been praying and seeking God for the promised revival. Now as it is around the corner and so, prepare for it. In 1927, exactly 90 years ago a great man of God named Smith Wigglesworth came to Sydney. During his ministry in Sydney, the Lord spoke the prophetic words through him:
‘Australia, you have been chosen by God for a great movement of the Holy Spirit, this movement of God will be the greatest movement of God ever known in the history of mankind. A great revival will begin in Australia, spread throughout the world and usher in the beginning of the second coming of the Lord Jesus Christ. This will be the final revival before the coming of the Lord’. 
As all the nations of the East see the sun first before the nation of the West, in the same manner, the nation that is in the Far East, Australia is the first to see the Lord. Australia is a nation of promise, an Isaac, a son of promise. When the rebirth comes, she will be the first nation to see rebirth. So, the revival will go out to the rest of the world from here. This is the promise given in 1927, ninety years ago by a true prophet of God, but not false prophets who renounce God’s Word for money. Even though the nation of Australia has turned away from God, God still remembers the promise of prophecy that he made to Smith Wigglesworth way back from 1927!


If this prophecy is really from the Lord, how exciting it is! The renowned prophet referred to Smith Wigglesworth in his prophecy, who was one of the greatest men of God and was called ‘The Apostle of Faith’. Smith Wigglesworth was indeed a tremendous man of faith, who was born in 1859 in Yorkshire, England and passed away in 1947. He converted to Christ at age of eight and started winning people to Christ. At the age of forty-eight he was baptised in the Holy Spirit, when his ministry changed drastically. He believed that God could do the impossible and with deep love and compassion towards the poor and the sick, he healed numerous people. Even twenty people were reportedly raised from the dead after he prayed for them.

His life was always very tough, in which he himself fought an unthinkably fierce fight against appendicitis and kidney stones. However, although he believed in complete divine healing beyond a shadow of doubt, he faced illness and deaths of many people he loved, which included the death of his wife, his closest confidant and strongest supporter, and also his son. His daughter had a lifelong deafness and he himself suffered lifelong sciatica. All these are simply God’s mystery, which we cannot reason.
In 1936, Smith Wigglesworth prophesied about the charismatic movement, in which he accurately predicted that the established mainline denominations would experience revival and the gifts of the Spirit. He did not live to see it as he himself told, but his prophecy has certainly been fulfilled in our days.

I have read almost all his books and testimonies by witnesses, and yet I have not been able to find any authentic documentation that Wigglesworth prophesied revival over Australia, and yet, there are many publications that make this claim, causing a global spread of his alleged prophecy:
‘You have been chosen by God for a great move of the Holy Spirit…this move of God will be the greatest move of God ever known in mankind’s history and will start towards the end of the 20th century and move into the 21st century. This move of God will start a great revival in Australia and spread throughout the world…’ 

The Bible does not explicitly mention a revival of global scale. I believe that the passage from Isaiah 57 quoted at the beginning describes the nature of a true divine revival, which starts in the hearts of individuals who are lowly and contrite in heart. We should not be praying “peace, peace”, if the Lord first requires us to repent with a sincere heart. Our hearts need to be aligned with his perfect will. According to the quoted passage from Isaiah, it is only to those who live in righteousness and seek after the Lord that the promise of his grace is given, not to those who just entertain presumptuous hope of revival, happiness and peace. Discerning voices is quite difficult.

#263: WHAT IS THE PRESENT WORLD, THE AGE OF DECEIT LIKE?

WHAT IS THE PRESENT WORLD, THE AGE OF DECEIT LIKE?

Where is Justice? Where is rghteousness? ...
A sort of replacement by similar words, things, teachings, laws is a very trend of today's world, the Age of Deceit.

I will sing for the one I love a song about his vineyard: My loved one had a vineyard on a fertile hillside. He dug it up and cleared it of stones and planted it with the choicest vines. He built a watchtower in it and cut out a winepress as well. Then he looked for a crop of good grapes, but it yielded only bad fruit. “Now you dwellers in Jerusalem and people of Judah, judge between me and my vineyard.
What more could have been done for my vineyard than I have done for it? When I looked for good grapes, why did it yield only bad? Now I will tell you what I am going to do to my vineyard: I will take away its hedge, and it will be destroyed; I will break down its wall, and it will be trampled. I will make it a wasteland, neither pruned nor cultivated, and briers and thorns will grow there. I will command the clouds not to rain on it.”
The vineyard of the LORD Almighty is the nation of Israel, and the people of Judah are the vines he delighted in. And he looked for justice, but saw bloodshed; for righteousness, but heard cries of distress. …
Woe to those who call evil good and good evil, who put darkness for light and light for darkness, who put bitter for sweet and sweet for bitter. Woe to those who are wise in their own eyes and clever in their own sight. Woe to those who are heroes at drinking wine and champions at mixing drinks, who acquit the guilty for a bribe, but deny justice to the innocent. Therefore, as tongues of fire lick up straw and as dry grass sinks down in the flames, so their roots will decay and their flowers blow away like dust; for they have rejected the law of the LORD Almighty and spurned the word of the Holy One of Israel.
Therefore the LORD’s anger burns against his people; his hand is raised and he strikes them down. The mountains shake, and the dead bodies are like refuse in the streets. Yet for all this, his anger is not turned away, his hand is still upraised. ISAIAH 5:1-7, :20-25.



The song of the vineyard is one of the most passionate parables of the Lord, which Prophet Isaiah puzzlingly and beguilingly introduced to a nation who had no ear to listen. Isaiah’s task here is to expose the sins of his fellows and warn of judgment to come. It would be a very hard task for him to confront with his suspecting audience. What starts out as a love song soon turns into a severe, unpleasant message. ‘My loved one’ is the Lord and ‘a vineyard’ is Judah (Israel). The Lord lavishly cared for His vineyard only to find worthless wild grapes. In the following verses from 8 to 19, Isaiah explains what bad fruits the vineyard has produced, beginning with six repetitions of the term: ‘Woe to’.

After the introduction of the song, the Lord asks the audience, ‘dwellers in Jerusalem and people of Judah’ for a verdict, and then He announces His decision to remove his protection over them. Verse 7 is Isaiah’s interpretation of the Lord’s verdict. He loved the Lord so much that he could identify very closely with His outrage and grief against the willful sinfulness of the nation. He could literally share His heart, which is powerfully expressed in his usage of language;
‘he looked for justice, but saw bloodshed; for righteousness, but heard cries of distress’ (Lines added). 
The Hebrew sounds of the first pair of the lined words and also that of the second pair were very similar, in which ‘justice’ is the righting of wrongs, while ‘bloodshed’ is the inflicting of wrongs. ‘Righteous’ is right living and right relationships, while to ‘cry’ indicates wrong relationships and the anguish of the oppressed, according to Motyer. J.A.’s comments. This is exactly what we are seeing in today's world, the Age of Deceit. The following article shows what the present world is like.
The victory of National Trust volunteers who objected to wearing badges showing support for gay pride was as welcome as it was unexpected – given the current politically correct climate. For those outside the UK, the National Trust is charged with looking after many of the nation’s great estates, particularly in cases where their upkeep is no longer economically viable for the original owners. Now, following an outcry to a new directive barring volunteers from public-facing duties at a Norfolk stately home if they refuse to wear the gay ‘rainbow’ symbol, over which dozens have quit, the Trust has backed down. Unpaid staff at Felbrigg Hall had been offered behind-the-scenes roles after saying they were “uncomfortable” with the idea – part of a six-week ‘Prejudice and Pride’ event marking 50 years since the de-criminalisation of homosexuality. …The BBC and other media are milking the ‘golden’ anniversary for all its worth, plaguing us with a veritable flood of gay propaganda - so much so that it seems hardly possible to find alternative viewing. Their clear agenda is to heap this new morality on millions of people, forced to pay for the ‘privilege’ with a hefty license fee. That is bad enough, but when the national body entrusted with the immense privilege of looking after vast swathes of our magnificent cultural and historical heritage takes up the same baton, for which they have absolutely no mandate (neither does the BBC, for that matter), things have gone too far. The courage of the National Trust workers is to be applauded. It shows there is still a remnant of decent folk – whether Christians or not - who have decided against having their hard-fought freedoms, principles and consciences dictated to any longer. The shame is that our spineless church leaders failed to lead the way in what could be the beginning of a fight-back for a recovery of Christian standards. …(http://prophecytoday.uk/comment/society-politics/item/790-workers-revolt-against-gay-pride.html)
This article above by Charles Gardner introduces a case in which workers boldly revolted against a trend of promoting the homosexual legacy linked with some of country houses. It also includes another decent folk’s voice: 
‘One of the biggest challenges hitting the church right now is the storm of secularism and humanism with its LGBT and transgender movements … The word of God is clear, concise and unambiguous: no sexually immoral person will have a place in the kingdom of heaven. Also among those denied entry to God’s eternal dwelling … “all liars”... willfully pursue what is in opposition to God’s will and practice it with pride. So it should be no surprise the LGBT movements hold what they call “pride” festivals… And church leaders who advocate in favour of such iniquity will be judged more harshly’.

第263号  コリント人第一14:1-19 

御霊の賜物「異言」

初代教会時代に福音を広めるために用いられた御霊の賜物… 今日も、特にへき地で大きく用いられている
終末末期、福音宣教に迫害が及び、この世の手段が用いられなくなるときこそ、信じる者たちが御霊の賜物を発揮するときになろう…

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。ですから、兄弟たち。私はあなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう… それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭な言葉を語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません… こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席についている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。     コリント人第一14:1-19


使徒パウロは、『コリント人への手紙』の12章で、御霊の働きについて詳述し、この14章では聖霊の賜物の中でも異言と預言に焦点を絞り、全章を費やして、コリント教会で起こっていた混乱と分裂からの解決策を提示しています。
初代教会時代から、聖霊の働きや霊感は人の側の熱望にすげ替えられ、ゆがめられる危険があったことがパウロの手紙から窺えますが、今日信奉されている明らかに聖書的ではない見解を二点、指摘することができます。聖霊の賜物は初代教会時代に限っての現象で、もうすたれたとする見解と、正反対に、賜物と体験を過度に強調し、賜物の行使を信仰による生まれ変わりを証明するしるしとみなす見解です。

パウロが14章で取り上げている「異言」は、新約聖書では、『使徒の働き』に多くの例証が挙げられているように、キリストが昇天された直後のペンテコステの出来事にて、カイザリヤの百人隊長コルネリオの家で使徒ペテロが福音を語ったとき異邦人家族に聖霊が降臨した出来事にて、また、パウロがエペソで、まだキリスト者として認められていなかった信者に出会い、「主イエス・キリストの御名によるバプテスマ」を授けたときに、自然に起こった現象です。キリストご自身も、弟子たちへの最後の言葉の中で、「信じる人々は新しい言葉を語る」として「異言」に言及されました。

異言と預言の違い

パウロは14章で、異言と預言の違いを「異言は神に語る言葉で、人が理解することを求めて話す言葉ではない。人ではなく、自分自身を霊的に啓発、教化する」、他方で「預言は人に向かって、人に理解してもらうために話す言葉で、聞いた者たちが力を受け、勇気と慰めを得る。したがって、神の民、―教会― を啓発、教化することに大きく貢献する」と、この二つの賜物の対象と目的が違うことを明らかにしていますが、パウロの教えを理解するには、当時の時代背景を知る必要があります。

教会に忍び込んだ異端

パウロの時代、コリント地方に影響を及ぼしていたと思われるカルトは幾つかありましたが、コリント教会に忍び込んでいた二つの大きなカルトは「酒/ワインの神、デュオニソス」と「音楽、預言の神、アポロ」でした。当時教会にも広まっていたこのような異端の影響は、エペソ人への手紙5:18の「酒におぼれないように」というパウロの忠告にも反映されています。異端の神秘宗教の影響は極めて強く、コリント教会の礼拝形式の中にも持ち込まれ、異端の影響を受けた信徒たちが陶酔して、熱狂的に礼拝する雰囲気に、「異言」は欠かせないものでした。異端信仰では、特に女性が神がかり的に異言を発し、礼拝をリードするのが常で、神々の神秘の域に達した者だけがそのような能力を授けられるとみなされ、神秘的なものに対する優越性が認められていたのでした。教会内には、特別な者だけに顕される神の奥義とされた「霊知」をはじめ、多くの異端が混入、個人的な霊的体験や神々との一体感を追い求める体験重視の気風が浸透していました。

教会内に真理と虚偽が共存

パウロがコリントの教会に警告のメッセージを送らなければならなかった背景には、このような真理と虚偽の共存が教会に広く浸透していたことが挙げられるのです。キリストはご自分の初臨から再臨までの間にこの地上に広がる教会を「麦と毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30)で語られ、最後まで、―主の再臨のときまで― その状態は続くと教えられましたが、パウロはキリストのこの教えに則して、対策を講じています。それは、毒麦を排除する手立てではなく、麦が毒麦に妨害されないような防御策を確立することでした。それは、善悪を見分ける基準を提示し、「御国の子どもたち」に正しい方向づけをすることでした。

異端の異言の流布

パウロは、冒頭に引用した段落で、神から来る真の「異言」が、ちまたで広まっている神がかり的な異端の異言とは形式的にも性質上も全く違うものであることを明確にし、神に向けて語られる異言が自らの霊的能力を誇示したり、霊性を格づけるしるしでは決してないこと、神は人々に向けて語るために「預言」という別の賜物を下さったので、「みなの益となるため」、「教会の徳を高めるため」、預言で人々を方向づけていくべきであることを、教えたのでした。異言を霊の賜物として明確に認めていたパウロは、異言を否定したのでは決してなく、異端の異言を教会に持ち込むことに警告を発したのでした。パウロの指示は、愛を追い求めること、霊の賜物を熱心に求めること、特に預言することを求めることの三点で、異言の賜物に過度に心が奪われ、他人への配慮より自分の満たしばかりを追い求めていたコリントの教会の人々には、賜物の目標が教会の啓蒙であり、人を助けるために授けられるものであることを、銘記させる必要があったのでした。

異言に対する間違った教理

聖書のどこにも、信じるすべての人が同じ聖霊の賜物を受けるとは書かれておらず、「異言の賜物」を聖霊のバプテスマ、満たしの証拠とする見解に聖書的根拠はないのです。パウロは
世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません 

と語り、キリストの昇天直後のペンテコステの出来事で実証されたように、公で語られる異言が、すべての人々に福音を伝える手段として用いられる既成の言語である可能性を示唆しています。ペンテコステのとき人々を驚かせた現象
どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう
は今日、世界の僻地で実際に起こっている、異言による福音宣教の例でもあるのです。また、パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」と経験者の立場から教示していることを明らかにしていますが、このことは警告する者の立場上重要です。

神からの異言の実例

実際に聖霊の賜物、神からの「異言」が人の魂の救いにいかに大きく働いたかの証しを、以下ご紹介することにしましょう。
英国在住のユダヤ人牧者、ラルフ・ゴールデンベルク(敬称省略)が七十二歳になり、自らの二十年間の牧会を振り返った自叙伝‘Find the Truth and Lock it in Your Heart’には、真理を求める人には神の見えざる御手が本人が気づくよりはるか前から置かれ、神が導いてくださっていること、神は「真理を求め、真の神に出会い、受け入れた人」を、年月を経て福音を伝える器へと導いてくださることが証しされています。

ラルフ・ゴールデンベルクは、スーダンのユダヤ人共同体に主任ラビとして遣わされた祖父の四十人の孫の一人で、スーダンで幼少時代を送りました。祖父は孫たちやラルフに常々、「真理を見つけ、心に蓄えよ」と教えていました。ラルフはスーダンにいたとき、カトリック系の学校に通い、後、ロンドンで同じく検眼士になる学びをしていた妻に出会い、眼鏡屋を経営していたキリスト者の友人と組んで仕事を始めることになりました。

多くのキリスト者との出会い

「自分はユダヤ人だが、イエス・キリストについて知りたい」と、真理を追究していたラルフは、教会にも通うようになりました。ラルフにとって最初の教会体験は英国のボーンマスでのことでした。手術のために英国に戻った、中国に遣わされていたある宣教師が教会員の祈りと油注ぎによって奇蹟的に癒され、手術をキャンセルしたのを目撃しただけでなく、ペンテコステ礼拝のときには、教会の全員に聖霊が下り、子どもたちが大人のために祈り、預言し始めたのも目撃したのでした。ラルフは心の中で、「もし、キリストが生ける神なら、だれか少なくとも一人でいいから、『イエス・キリストは生きておられる!』と言う人に出会いたい」と思っていましたが、あるとき、新しい讃美歌が導入されたとき、その中で「イエスは今も生きておられる」が数回、くり返されたのを聞いたのです。妻は彼より先にキリストを救い主として受け入れていましたので、このときラルフもキリストを信じる者になりました。しかし、ラルフが福音宣教の確実な召名を感じたのは、その十年後でした。

ある集会で異言が語られたとき、ラルフには、スーダンで聞いて知っていたアラビア語で「神はあなたを愛しておられる。あなたはアブラハムの血筋の者、福音はあなたの口にある」の意であることがすぐに分かりました。その集会では、パウロの指示
もし異言を話すのならば、二人か、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい(コリント人第一14:27) 

に従い、異言を語った人はその内容を「あなたは福音を宣言し、わたしの民を神の国に導く、と主が語っておられる」と、解き明かしたのでした。ラルフは神が異言、すなわち、アラビア語で自分に語られたのを悟り、すでに十年前に与えられていた確信を、牧会者として歩み出すことによって、実践へと移したのです。このようにして、ラルフ・ゴールデンベルクは肉の目の健康に従事する者から、ユダヤ人同胞の霊の目を開き、真理を伝える牧者、ユダヤ人共同体に福音を伝える者に変えられたのでした。ガリラヤの漁師だった弟子たちに
わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう  

と声をかけられ、招きに従った者たちをご自分の器に変えられたキリストの召名/召命に、年齢制限はないことを思い起こさせるラルフの証しでした。