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第207号:マタイ24:1-30:「天のしるし」 皆既月食とイスラエルの主の例祭との不思議な関係

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イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください、いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい……わたしの名を名のる者が大ぜい現れ……民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです……わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします……しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます……
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが、天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。
マタイ24:1-30

神は天地を創造されたとき「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ」(創世記1:14-15)と仰せられて、生き物の一生、生活環に太陽、月、星が深くかかわり、人は神からのしるしを天体の動き、変化を通して知ることになることを示されました。この聖句の14節の後半部はNIVでは「季節、日、年を示すためのしるしとなれ」で、用いられているヘブル語“オト”「しるし」には、ときのしるし、前兆の意があり、“モアディム”「季節」は、定められた「とき」、祭り、集まりの場などの意があります。前者は、カインのしるし(神の守りのしるし)や、ノアのしるし(神とすべての生き物との間の契約のしるし「虹」)にも用いられている用語です。天空の星は、神が地上の者たちに何かを示すために配置されたというのが聖書の主張で、宇宙空間にただ均等に、あるいは、不均等に散在しているのではなく、預言者イザヤが「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(イザヤ書 40:26)と語ったように、神は御目的を持って、太陽、月、諸惑星、星、星座を造られ、名さえつけられたのでした。したがって、天体、彗星の周期的な回帰、流星が天球上に雨のように降り注ぐ流星雨、日食、月食などの現象は、聖書用語でいえば、「天のしるし」ということになるのです。「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます……そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み……天の万象が揺り動かされるからです」(ルカ 21:11-26、下線付加)と、キリストご自身、ご自分がこの地上に戻って来られる前に、このようなしるしが天に現れることを何度も繰り返し語られました。また「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はいないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます」(マタイ24:21、下線付加)とも言われましたが、「かつてない大地震、かつてない津波、かつてないハリケーン、かつてない竜巻、かつてない洪水……」と、昨今、世界的に用いられることの多くなっている言葉はまさに、私たちがこの終末の末期に生きていることを裏づけています。

ヘブル語(旧約)聖書でも、「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と人煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」(ヨエル書2:30-31)のように、主の再臨直前の現象として、あるいは、神が地に力あるわざをなされるとき、送られる不思議な「しるし」として、万象が揺り動かされることが至る所に記されています。キリストは、地上で福音宣教を始められ、弟子とともに神の力あるわざを始められたとき、「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました」(ルカ10:18)と言われましたが、このときキリストは、天に起こった現象を地への「しるし」として説明されたのでした。このときを境に、サタンとその手下どもは、天界の居場所を失い、地の回りを徘徊する分際に成り下がったのです。イザヤがサタンについて語った預言の成就でした。キリストがこの世に「救い主」としてご降誕され、福音、―信仰による救い、神が一方的に差し出してくださった、唯一最後の救いの手段―が伝えられたことにより、神の人類救済のご計画は、終末、すなわち、救済史の最後のステージに入ったのです。

教会の時代は、異邦人への宣教の時代で、キリストがこの地上に再び戻られる再臨のときまで続きますが、その最後には、多くの預言者が告げてきた「ひどい苦難」のときが訪れます。これまでにも教会史のある時期はクリスチャンに対する迫害で彩られてきましたが、今世紀に入って、トルコ、エジプト、インド、中国、イスラム教徒の国々はじめ、キリスト教国とされている米国、英国、ヨーロッパでも迫害が広がっているのです。冒頭に一部を引用したマタイ 24 章のオリーブ山でのキリストの講話を含み、聖書には、終末の末期、再臨前の「産みの苦しみの初め」に起こる諸事が詳細に予告されていますが、多くの者を惑わす偽預言者、偽教師の出現、戦争と戦争のうわさ、地震、飢饉、疫病、真のキリスト者への迫害、激増する暴力、無法、不道徳、不正、暴動、略奪、虐待、家庭崩壊、憎み合い、愛の冷え等々ほか、今日の世界的現象である背信、神の定められた秩序、真理からの逸脱はどれも、紛れもなくこの時代が、キリストの再臨直前の世代であることを告げています。しかしそのような最悪の中でも、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とキリストが明言されたように、福音は、少しでも多くの人々を永遠の救いに入れるために、最後まで語られるのです。神の側の最善は最後まで罪人に向かって差し出されているので、主を受け入れ、従う者には、最後の一瞬まで絶望はないのです。

今日、インターネットの発達によって、この御国の福音はかつてない広域、文字通り、世界中に中東での最新情報とともに伝えられています。ヨハネは主の再臨の直前にエルサレムで起こる出来事、「ふたりの証人」の死と、その甦りのおそらく両方が、「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々」、すなわち、全人類によって目撃されることを預言しています(ヨハネの黙示録 11:3-12)が、そこに描写されていることは、インターネット、世界中に張り巡らされたニュース・ウェブの普及によって、同時多発的に世界中の人々が世界の片隅で起こっている出来事を目撃できるようになった今日、初めて実現可能になった最新文明の所産なのです。

この最後の世代への神のメッセージとして、非常に興味深い天体現象が2014年から2015年にかけて起ころうとしています。今世紀に入って、現行のグレゴリオ暦の 2008年、2009 年、2010 年の七月から八月にかけて、部分日食が起こりましたが、奇しくも、これはどれもイスラエル暦の「アブの月の一日」に起こりました。続いて起こると天文学的に予測されている月食、日食は、次表のようにすべて、神がモーセを通して守ることを命じられた「イスラエルの主の例祭」の時期に一致して起こることがNASAのデータで明らかにされています。

2014年4月15日 皆既月食 イスラエル暦5774年ニサンの月の15日 過越の祭り
10月8日 皆既月食 イスラエル暦5775 ティシュリの月の14日 仮庵の祭り前夜
2015年3月20日 皆既日食 アダルの月の29日 イスラエル宗教暦、新年の前夜
4月4日 皆既月食 ニサンの月の15日 過越の祭り
9月13日 部分日食 エルルの月の29日 イスラエル民事暦、新年とラッパの祭りの前夜
9月28日 部分月食 イスラエル暦5776年ティシュリの月の15日 仮庵の祭り

このように、二年間の四回の月食がすべて、イスラエルの三大例祭のうちの最初と最後の重要な例祭、「過越」と「仮庵」に重なることは異例なことで、今後四百年間は起こらないことがNASAの天文学的データから分かっています。ところが、この非常にまれにしか起こらない現象が、二十世紀に二回起こったこともデータから明らかになっています。二十世紀のいつ、この四回の月食が「過越」と「仮庵」の祭りに重なったかを知ることは、これがまさに、神が送られた「天のしるし」であったことを裏づけているので重要です。最初は 1949年から1950年にかけて、二度目は1967年から1968年に起こりました。イスラエル国家が国連の承認によって突如誕生したのは 1948 年で、アラブ諸国の熾烈な反対にもかかわらず、イスラエル国家が千九百年ぶりに復興したこの出来事は紛れもない神のご介入の結果でした。この神の民イスラエルにとっての時代を画する出来事を追うかのように、主の例祭日に四回続きの月食が起こったのでした。二度目は、アラブ諸国の奇襲攻撃によって、イスラエルが「六日戦争」に巻き込まれた 1967 年にやはり、四回続きの月食が起こりました。このときも神のご介入により、無防備のイスラエルの勝利で六日間で戦争終結することができ、首都エルサレムをアラブ諸国の支配から完全に解放することもできたのでした。このように、イスラエルに起こったこれら画期的な出来事と、四回続きの主の例祭時の月食現象とは明らかに無縁ではないのです。

さらに、このような四回続きの月食と主の例祭との重なりは、それ以前では、はるか前、1493年に起こったことが分かっています。1492年は、スペインの王家に仕えたイタリア人クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見した年で、同時に、ユダヤ人国外追放令が発布され、スペインからユダヤ人全員が追放されたのでした。過去のこのように特徴的な月食がイスラエルに起こった出来事に関連していることを発見したユダヤ人ラビのマーク・ビルツは、月食はイスラエルへの、日食は異邦人へのメッセージであると主張しています。果たして神は近未来に起こる天体現象を通して、どのようなメッセージを告げようとしておられるのでしょうか。しかし、たとえこの天文学的データから予測されている年の前後にイスラエルに特に大きな出来事が起こらないとしても、主の初臨のとき、マギを導くために神が超自然的なご介入で、しるしの「星」を送られたように、再臨のときも、天文学的には予測できないご介入で、「天のしるし」を送られることになるでしょう。

第206号:ミカ書5:1-9:今年もクリスマスの時節が近づいてきました

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世の光、イエス・キリストは、人類の救いのため手を差し伸べておられます。
主、イエスを受け入れ、信仰、希望、愛が、
皆様の心に灯される時節となりますようお祈りいたします。

愛の冷え切ったおぞましい事件や、混乱に陥った人々が衝動的に引き起こす大事件が日に日にマスコミをにぎわしている昨今、世の中を明るくし、真の生命を与えるメッセージや行事はこの世に生きる人々、成長の過程にある子どもたちには不可欠です  「パンの家」の意のベツレヘムがひときわ明るい星の下、この世の暗やみのただ中に送りだしたのは、信じるすべての者に「いのちのパン」、永遠の生命をもたらす救い主でした。これがクリスマスのメッセージです!

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの部族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。彼は彼らの平和になろう。
アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿(要塞 )を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で支配する。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う。そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手は勝利で敵に向けて上げられ、あなたの敵はみな、立ち滅ぼされる。
ミカ書5:1-9(青色、ゴシック体表示はNIVの邦訳)

メシヤ預言でよく知られているミカ書のこのくだりは、イスラエルが裁き司(すなわち、王)を絶たれ、国を失う危機にさらされた後、永遠の昔から定められていたイスラエルの真の王メシヤがお生まれになり、地に真の平和の満ちるメシヤの王国が樹立されるまでの長期に亘る遠未来預言を短縮して描写したものです。ベツレヘムのエフラテはユダの部族の中で数えられることもなかった小さな町でしたが、神は人間史の最初からこの町を選び、エフラテ人と結婚したモアブ人ルツを通してひ孫ダビデを誕生させ、ダビデの子ナタンの血筋から人類の救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。預言者ミカは、イスラエルが国家離散、迫害、苦難の暗黒の時代を経たあと、神が「産婦」(おそらくマリヤヘの言及)を通してメシヤを送られること、ユダヤ人が敵の攻撃、迫害によって最後まで多くの苦しみを経ること、―この間はちょうど、ヘブル語聖書では語られていない異邦人にも救いがもたらされることになった新約の時代(今日に至るまでの二千年で、教会の時代)になるのですが―、しかし、究極的には、離散していた全イスラエルが再統合され、ユダヤ人メシヤ、イエス・キリストによる神の国が地上に具現することを描いています。ミカの時代の最強の敵は、地上最初の権力者でバビロンをも創設した「ニムロデ」に由来するアッシリヤでしたが、「アッシリヤ」にはイスラエル史におけるすべての敵が象徴されているようです。実際、イスラエルがエジプトに寄留していたとき、イスラエルの民を抑圧したのはアッシリヤ人で、神は預言者たちの時代にも、反逆のイスラエルを懲らしめる「怒りの杖」としてアッシリヤを用いられましたが、世の終わりに登場する反キリストもアッシリヤ人に関連づけられるようです。しかし、そのような屈強な敵勢に立ち向かうために神が備えられるのは、この世の常識を破って「七人の牧者と八人の指導者」、すなわち、神の霊が注がれた霊的指導者です。究極的にメシヤがご介入されることによって、ユダヤ人の大艱難に終止符が打たれるとすれば、ミカはここで、主の再臨によって引き起こされる人間史上最後の戦い「ハルマゲドンの戦い」を預言したのかもしれません。主ご自身と、主を信頼し、神の霊の武具で戦う戦士たちによって、神の敵、神の民ユダヤ人の敵はすべて滅ぼされ、ついに地上に真の平和がもたらされることになります。

「羊の群れのやぐら」とも呼ばれたベツレヘム・エフラテはダビデの誕生の地で、エルサレム神殿に捧げる羊の群れを養い、検閲する放牧地のある、羊飼いの本拠地でした。生まれた羊は「布」にくるまれるのが習わしでしたから、家畜小屋で生まれ、布でくるまれ、ベツレヘムの羊飼いによってご降誕を祝われたキリストは、まさに神殿に捧げられることになる完璧な子羊誕生を象徴すると同時に、完璧な神の羊飼い、「大牧者」誕生を象徴するものでした。後世、紀元前四年ごろ、東方からの博士たち(マギ)が、当時王位を買収で獲得し、ローマ帝国の認可を受けてユダヤ人の王と称していたエドム人ヘロデにユダヤ人の王誕生について尋ねたとき、不安になったヘロデがその生誕地はどこかと聞き返し、マギが引用したのがこのミカの預言「ユダのベツレヘム」でした。暗闇から光を切望する時節がまた巡ってきました。

ユダヤ人の王の誕生を星の動きから知り、エルサレムにやって来たマギは、名前がカスパル、メルキオル、バルタザルと憶測され、ノアの三人の息子シェム(アジア)、ハム(アフリカ)、ヤペテ(ヨーロッパ)、あるいは、アラビア王、ペルシャ王、インド王を象徴するという様々な説が六世紀以降定着したようですが、実際の正体は「マギの長」、ちょうどダニエルがバビロンで与えられた「呪法師の長」という称号に該当する地位を指すもののようです。「ペルシャの博士」とはミデヤン人の祭司制度下での位で、カルデヤ人の「バビロンの博士」がよく詐欺師とみなされていたのに対し、前者は、メディヤの法廷で夢の解き明かしの専門家と認められ、その夢占いの知恵、知識はダリヨス王によってペルシャの国教として樹立されたのでした。ペルシャ帝国でのこのマギの高い地位確立、―祭司権、政治的統治権を用い、王を選択、指名する絶対権も有し、まさに宗教と政治の結託の様相を呈した―には、バビロン、メディヤ・ペルシャ、ペルシャ帝国の四人の王に忠実に仕え、イスラエルの神の知恵を分かったに違いないダニエルの影響が考えられるのです。ダニエルの時代以降、ペルシャとユダヤ人国家はこのマギを通して関連を深め、マギの合成宗教に、異端化されたとはいえ、一神教、一人の創造者、世襲の祭司制度、血のいけにえの儀式を通して神と人との仲介をとり持った祭司の重要な役割、占いを通して(レビ人の祭司がウリム、トンミムを用いるように)神に伺いを立てる祭司の知恵への依存、聖さと汚れの概念など、イスラエルのヤーウェ信仰との共通点が見られる理由はこのように歴史的に説明されるのです。明らかなように、マギは当初は、ちまたで間違って伝えられているように、ゾロアスター教の信奉者でも占星術者でもなかったのです。

王指名権を持ち政治的影響力を持っていたペルシャのマギがメシヤ預言を利用して、自分たちに都合のよい新しい王朝を樹立しようと動機づけられたことは十分考えられることで、ヘロデ支配の時代の後半期にエルサレムに突如として現れたのは、おそらく騎兵隊に護衛されてのこのマギの豪華な行列で、ヘロデの治世中ライバル関係にあったローマとパルティアの二大帝国に挟まれた緩衝地帯イスラエルの王座をかろうじて維持していた当時のヘロデにとっては、パルティア軍のローマ管轄地帯への領土侵犯の可能性をも疑わせる脅威でした。その出現にヘロデが非常に警戒、恐怖をなしたのはこの政治的背景のゆえで、そのうえ、ユダヤ人の王誕生の知らせは、エドム人ヘロデには悪夢でした。マタイ2章から、マギの動向をたどることができますが、メシヤ誕生を告げる「星の出現の時間」は明らかにこの時点より一年以上前に起こったと思われ、マギはそれに導かれて旅をし、ベツレヘムに現れたのでした。キリストがご降誕されてから一年以上経ったある日、このベツレヘムの星がマリヤ、ヨセフ、幼子が移り住んでいた家まで導き、そこでマギは神性を象徴する「黄金」、祭司職を象徴する「乳香」、幼子の死を象徴する「没薬」を贈り物としてささげ、救い主イエス・キリストを礼拝したのでした。その後、マギがヘロデには報告せず、東の自分の国へ帰ったことを知ったヘロデは、メシヤの生まれた日を割り出して、「ベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子」を虐殺することを家来に命じたのでした。

マタイとは違った観点から、別の福音著者ルカは、遠方からやってきたマギよりもはるか先に、キリストがお生まれになったその夜、ベツレヘム近辺の放牧地で羊の群れを飼っていた羊飼いたちが、御使いと天の大軍勢の賛美を聞き、飼い葉おけに寝ておられた御子を探しあてて礼拝したことを告げています。パレスチナで羊飼いが野宿をするのは晩秋までであることから、キリストがお生まれになったのは真冬ではあり得ず、そのほかの多くの理由からも今日では、伝統的なクリスマスの日は異端崇拝の祝祭日でこそあれ、キリストのご降誕日でないことは明らかになっていますが、マタイ、ルカはじめ、諸預言書の記録、歴史的時代背景を考慮しますと、キリストのご降誕は紀元前4~6年の秋、おそらくイスラエルの主の例祭のうちの最後の祭り「仮庵の祭り」(九月末から十月初)の時期で、羊飼いたちは生まれたばかりのキリストを礼拝したと思われます。その後、ヨセフ、マリヤ、幼子イエスはベツレヘムのどこかの家を借りて住み、キリストが一歳を過ぎたころ、東方からのマギがエルサレムのヘロデを訪ね、メシヤ誕生の伺いを立てたことが考えられます。予期しない知らせにヘロデは大変動揺し、大慌てで星の現れた時期にさかのぼり、ベツレヘム中の男子誕生の情報調査に取りかかったに違いありません。そのままエルサレムからさらに旅を続けたマギは、ベツレヘムで星がその上に留まった家を探しあて、メシヤを礼拝したのでした。おそらく、この日が、伝統的にイエス・キリストの誕生日とみなされてきた十二月二十五日、クリスマスで、マギがキリストに贈り物をささげ、喜びを表したように、人々の間に、キリストのご降誕を祝う贈り物をお互いに贈り合い、あるいは、貧しい人たちを顧みる習慣が定着したことが考えられます。

クリスマスほど、この世の人たちに大きく受け入れられている祝祭日はほかになく、福音に耳を傾け、教会の諸行事に参加し、礼拝に参加することが一般の人々にとって抵抗なくできるこの時期を、神が備えてくださった福音宣教の「とき」として活用することはむしろ妥当で、異端への迎合として捉えるべきではないというのが大方のクリスチャンの意見ではないかと思います。愛の冷えきったおぞましい事件や、混乱に陥った人々が衝動的に引き起こす大事件が日に日にマスコミをにぎわしている昨今、世の中を明るくし、真の生命を与えるメッセージや行事はこの世に生きる人々、成長の過程にある子どもたちには不可欠です。「パンの家」の意のベツレヘムがひときわ明るい星の下、この世の暗やみのただ中に送りだしたのは、信じるすべての者に「いのちのパン」、永遠の生命をもたらす救い主でした。これがクリスマスのメッセージです。今年のクリスマスこそ、子どもたちに真の夢、希望を与え、愛、喜び、感謝に満ちた新生、画期的な霊的覚醒を日本にもたらしてほしいものです。

第205回:ヨブ記1:1-6,42:10-17:ヨブ記に秘められた預言的メッセージ

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ヘブル人ヨブの人生には、まさに神の選び、約束の民でありがなら、この世から理解されず不当な迫害を受け、繁栄、栄光を剥奪され、奴隷以下、獣同然に扱われ、絶望の暗やみに突き放されるイスラエルの民の苦難の歴史と、その後の復興が象徴されている。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き……こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのためにそれぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「わたしの息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた……
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された……主はヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭……また、息子七人、娘三人を持った……この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。
ヨブ記1:1-6、……42:10-17

聖書の中で最古の書とみなされている『ヨブ記』は箴言、伝道の書、雅歌と詩篇の一部に並び、古代イスラエルの知恵の文学の範疇に入れられており、秘められたメッセージが組み入れられた見事な文学的枠組みで、構成されています。謎めいた格言(たとえ)を愛したイスラエルの王ソロモンは、『箴言』の冒頭で「知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである」とその書の目的が、人々に知恵ある者のすべての格言を理解する鍵を与えることであると明記しています。語られたたとえ、なぞを理解することによって、たとえに託された寓意を悟り、預言的メッセージを得ることは神ご自身が用いられた方法(一例:エゼキエル書 17:2-10)でした。神がいつもだれにでも分かる言葉で、御旨を顕わされるのでないことは、聖書の多くの箇所から明らかですし、キリストも「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」(マタイ13:13)と、神の御旨を求め、御言葉に耳を傾ける者は神の奥義を知るにふさわしいが、聞く耳のない者は心が神に向いていないので、たとえを聞いても理解できないままに残されることを明白にされました。ヨブ記は、人間史の背後に神に挑戦するサタンの働きがあることを明らかにした非常にユニークな書であるだけでなく、創造に関して驚くほど造詣が深く、少なくとも十五のはるか後世の科学的発見に言及している書ですが、今月は、ヨブ記全書に織り込まれた預言的メッセージを考察することにしましょう。

「迫害された、憎まれた」という意のヨブは、「ウツの地」に住む「東の人々の中で一番の富豪」で、神の御前に義とみなされた信仰の人でした。ヨブの生きた時代、住んだ場所、出自は、用いられている用語の特徴、用いられている神の名、言及されている事がら、聖書の他の聖句を考証することでかなり絞られ、モーセに律法が与えられる前の、二百歳近くの長寿が普通であったイスラエルの族長時代に生きた人であったこと、エジプトとペリシテとの間のどこかの地に住んだこと、書中に族長たちによく知られていた神の名「シャダイ」が独占的に多く用いられていることから、ヘブル人であったとみなすことができます。時代考証で鍵となる事がらは、ヨブ記には十以上記されており、その一つ、族長時代に関わりの深い個人名や場所が登場することだけでも、多くの裏づけができます。「ヨブ」は 2000BCEごろ一般的であったセム系部族の名で、創世記 46:13の族長イッサカルの息子であったとすれば、ヤコブとともに、エジプトに移住した七十人の一人であったことになり、おそらく、エジプトの三角州ゴシェンの地の「東」に住み、富み栄えたヘブル人という筋書きが描かれます。ヘブル人の聖書の正典に選ばれた『ヨブ記』の主人公が異邦人であったということはまず考えられず、ヨブが一家の祭司としての役割を果たしていること、いけにえにを捧げているが律法やイスラエルの民への言及はないこと、他の神々に言及されていないこと、娘たちにも息子同様の遺産の相続権が認められていること、富が家畜の数ではかられていることから、イスラエルの民がヤコブ率いる一大家族から一国家として成長する黎明期の、パロに招へいされてのエジプト移住直後の時代と推測することは決して無理ではないようです。ヨブ記に登場するシェバ人やカルデヤ人は、国家形成前の遊牧民族としての民で、当時、バビロンとエジプトとの間を交易のために定期的に往来したものでした。エジプト北東部は、メソポタミアからアフリカへの隊商の通商路のちょうど中間地点で、2000BCEごろには、エジプトの三角州にはバビロンの地から多くのアラム人部族が移り住んでいたので、ヨブ記にアラム語が反映されている理由をも裏づけることになります。

神の大いなる祝福に与って幸福の絶頂にあったヨブが、ある日突然、財産、家畜、家屋、家族はじめ、所有していたすべてを奪われ、無一文になったうえ、身体をもひどい皮膚病で犯されるという、予想だにしない災いに見舞われるところからヨブ記は始まります。神の人として評判高く、近隣、遠方の者たちからも慕われ、敬われていたヨブが一転して、その名の通り「憎まれ、迫害される」者におとしめられたのです。来る日も来る日も土器のかけらで自分の身体をかき、灰の中を転げまわって、炎症を起こしてうずく傷口の痛みを和らげようとあがいている、哀れで、惨めな、絶望的なヨブの姿に、一番身近なところにいた妻は我慢できず「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と捨てぜりふを吐いて去っていきます。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」と穏やかに答えたヨブは、逆境にあっても信仰を失わなかったのでした。続いて、ヨブの苦難を聞き知った友三人がヨブを慰めようと遠方からやって来ます。見分けられないほどに変わり果てたヨブに、三人は上着を引き裂き、ちりをかぶり、深い哀悼の意を表し、最初の七日七夜はヨブの身になって、悲しみをともにしたのでした。しかし、苦闘が長引き、ヨブ自身の絶望状態が高じるにつれ、当初見せた三人の感情移入は、ヨブの苦境、苦しみの真相を暴き、分析し、理由づけをする方向へと移っていきます。彼らの到達した結論はヨブには隠れた罪があり、それがゆえに裁かれている、ヨブは偽善者だということでした。ヨブの突然の苦境が、天界の神の御許で「非難する者」サタンが神に挑戦し、許可を得て引き起こしたものであったことを知らないヨブの友たちは、ヨブを慰めるつもりが、神を仰がず、この世の常識、自分の経験、知恵に頼ったため、ヨブの妻同様、サタンの使いとして用いられてしまったのでした。ヨブの苦しみの背後には、ヨブ自身の罪以上の「罪の権化」サタンの介在があり、神意の下でそれが許されたのでしたが、そのことを理解することのできた者は、ヨブ自身をも含めてだれもいなかったのでした。

最後に、「私の神はその方」という意のエリフが現れて、ヨブが自分をあくまでも正しいと主張することは間違いであり、神を訴えているも同然であると非難し、同時に、全能者の懲らしめによる苦しみの意義を強調した後、仲裁者に基づく贖いの可能性、執り成しによる復興の希望へと話を進めたのでした。エリフは、三人の友たちには敵愾心を燃やしていたヨブが一転して耳を傾ける中、「魂の健康が取り戻され、心癒され、神との関係が正された人は内なる喜びに満たされ、自らに起こった神の驚くべきわざを他人に伝える証人へと変えられる」と、救いの見通しを語ったのでした。創造者なる遠大な神の御前に悔い改めを迫り、「神の奇しいみわざを、じっと考えよ」とのエリフの言葉に沈思していたヨブにそのとき、神が突然御姿を顕わされます。全部で七十七問の、科学の三十以上の領域に亘る神の質問攻めにあい、悟り尽くすことのできない、創造の神秘、摂理、永久の支配を垣間見させられたヨブは神との出会い(神々しい光)にさらけ出され、全面的に自分の罪を認めたのでした。

このヨブの出来事が書かれ、広められたのが、エジプトでイスラエルの民がヨセフを知らないパロの支配下で迫害されるようになった頃であったとすれば、知恵の文学に織り込まれた預言的メッセージの重要な意味が浮き彫りにされてきます。ヘブル人ヨブの人生には、まさに神の選び、約束の民でありながら、この世から理解されず不当な迫害を受け、繁栄、栄光を剥奪され、奴隷以下、獣同然に扱われ、絶望の暗闇に突き放されるイスラエルの民の苦難の歴史とその後の復興が象徴されているとみなすことができるからです。イスラエルにはいつの時代も最後まで神の約束を信じる信仰の人と、神を捨てた肉の人がいたように、ヨブの妻に象徴されているのは後者です。ヨブの苦難を知り、駆けつけた三人の友には、ノアの洪水後、セム、ハム、ヤペテから派生した全人類が象徴されており、まさに神の祝福を受け、義に生きようとする神の民のあら探しをし、告発するこの世を代表しています。実際ユダヤ人は歴史上、今日に至るまで人類の文明進化に最大の貢献をしてきたかけがえのない民族であるにもかかわらず、事あるごとに理不尽にこの世から疎外され、全諸国民から癌のように、人類から抹消されなければならない存在であるかのように取り扱われてきたのでした。最後にヨブを戒め、同時に、贖い主による救いの新たな光を投げかけた若いエリフに象徴されるのは、ヤーウェ信仰の年月に比べれば年の浅いキリスト信仰に生きる教会です。もう救いようがなく、絶望的に見えたヨブが、悔い改めと同時に神ご自身の出現に直面し、以前の二倍の祝福に復興させられたことには、ゼカリヤ書 12 章に感動的に描かれている、再臨のキリストを仰ぎ見て一瞬のうちに心底から悔い改め、千年支配の神の御国に入れられ、キリスト信仰に生きるようになるイスラエルの残りの者の姿、究極的に父なる神と和解し、太古の昔、神がアブラハムはじめ族長たちに約束された「聖地でのユダヤ人メシヤによる王国の樹立」が反映されています。「ヨブの前の半生」が今日のヤーウェ信仰に生きるユダヤ人の姿であるなら、二倍の祝福に与る「後の半生」には、ユダヤ人の残りの者が迎え入れられるキリストの千年支配が象徴されているのです。最後に加えられたヨブの子たちの数が二倍になっていないのには、重要な意味があります。ヨブ記冒頭の、突如、生命を奪われた子たちが甦って千年支配の御国に入るとすれば、後に加えられた子たちと合わせて二倍になることから、来るべき御国が、甦った聖徒とこの世の身体で生きる者との共存の王国であることを示唆しているからです。また義人の執り成しにこの世の人たちを救う力があることも、最終的に三人の友が赦されたことに反映されているのです。このように、ヨブ記は、近未来的には出エジプト前のヘブル人の、究極的には終末末期のユダヤ人の救いの預言的メッセージになっているのです。

第204号:詩篇140篇:近隣諸国との領土紛争で国家的危機に直面している日本

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果たして日本の、また世界が直面している危機を収めることのできる人物、政策があるだろうか。危機に直面した今の日本に必要なのは、聖書をひもとき、神の知恵を得ること。しかし、何よりも、歴史を最初から最後まで支配しておられる方、唯一真の神の存在を認め、神により頼む以外ないであろう。

主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。セラ 主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ
私は主に申し上げます。『あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。そのたくらみを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。
私を取り囲んでいる者の頭。これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように。彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、彼らが立ち上がれないようにしてください。そしる者が地上で栄えないように。わざわいが暴虐の者を急いで捕らえるようにしてください。』
私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行われることを。まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
詩篇140篇

日本は今、近隣諸国との領土紛争でかつてない国家的危機に直面しています。日本政府のあくまでも「冷静な対応を求める」とする姿勢を弱腰と非難し、事なかれ主義が蔓延した今日の日本の混迷状態、経済的停滞を、滅亡したローマ帝国の末期に類似しているとする記事はじめ、愛国心の勃興や国軍の再興を期待する声、国家の安全を維持するには、「非核三原則」や「専守防衛」という時代遅れで非現実的な政策を破棄すべきという右翼的な意見などが報道されています。既存政党には日本を任せられないと、「日本維新の会」という新奇な勢力も台頭し、総選挙を前に、政治家らはただ自分が当選することを目ざして躍起になっているようですが、果たして、日本の状態を治めることのできる人物、政策があるのでしょうか。

ある論評の中で、日本の諸隣国との問題が、領土紛争でにわかに深刻化した背景には、日本の米国に対する過度な依存とアジアに対する軽蔑という体質があるとの指摘がありましたが、安全政策に対する日本の誤った態度を根本的に見直さなければならないときが来たようです。ちまたでは、この世の次元からしか現象を捉えないので、どの見解も結局は、軍事力、経済力を強化し、富国、強国、隣国との友好関係、同盟に依存することを強調しているようです。国家の安泰には、他国との同盟に依存する以外に策がないのでしょうか。昨年の東日本大震災以降、復帰に向けての国民の前向きな姿勢にもかかわらず、経済、金融、政治、国際関係、どの局面を見ても斜陽化が間違いない今の日本を立ち直らせるには、視点を変える必要があるようです。忍耐の神は、これまで、神の存在を無視しても人の計画が成功することを許してこられましたが、すべての人に宿るかたくなな罪の心のゆえに、神の荒療治なくして目覚めることがなければ、どこかの時点でご介入せざるを得ないのです。背後ですべての人間史を支配しておられる創造者なる神に目を向け、立ち返る霊的覚醒の時期が世界的に、特に、無神論国として自らの義、掟に生きてきた日本に来ていることは間違いないようです。

中東では、イスラエルのイラン攻撃の可能性が今年初頭からしきりと話題にされて来ましたが、この時期、十一月初めの米国大統領選挙の投票日にかけてのイスラエル攻撃論が非常に高まっています。経済制裁や外交でイランに核開発断念を迫る平和交渉がほとんど決裂になっている現状で、米国がイスラエルを支援せざるを得なくなるタイミングでイスラエルが単独攻撃に踏み切る可能性が強まっているからです。再選を目指すオバマ大統領には、米国政界に多大な影響力を持っているユダヤ・ロビーや多くのイスラエル人票を獲得するには、イスラエルがイラン攻撃に踏み切った場合、支援せざるを得ない弱みがあるのです。しかし、聖書の預言は、終末末期の中東戦争を、全諸国がイスラエルを敵にするものとして描いています。果たして、ちまたで描かれているシナリオ通りに、中東戦争から、第三次世界大戦へ、ついには主ご自身が悪にとどめを刺される「ハルマゲドンの戦い」へと進展していくのかどうか、私たちは大変な危機の時代に生きています。

九月末にニューヨークの国連で百二十箇国以上からの指導者が集まり、演説が行われました。イスラエル抹消を公然と宣言していることで名高いイランのアフマディネジャト大統領は今年は比較的穏やかな口調で演説し、開発途上国がユダヤ主義者と世界を牛耳る資本主義大国、体制によって危険にさらされていることを訴えた後、後半部は、イスラム教シーア派の救い主「マディ(Imam Al-Mahadi)」の出現が非常に近いことに、新しい世界体制の希望を託して、締めくくりました。アラーの神の約束の救い主マディは完璧な人間で、イエス・キリスト(PBUH)と義人たちを従えて来て、この世の諸国のふさわしい男女を用いて、究極的、理想的な人生へと導いていく、抑圧、不道徳、貧困、差別は終わりを告げ、公義と愛と共感が始まるとのメッセージでした(Ref. IR_en.pdf)。

イスラム教では、イエス・キリストを実在の人物、預言者と認めていますが、大統領の演説内容から明らかなように、マディに同行する一預言者に格下げされており、キリストの神性は一切、否定されているのです。国連会場では、ことが宗教的なことに及ぶと多くが退席したとのことですが、この世の情報はまさに混迷を極めており、背景を知らない人たちにとっては、真実か幻想や妄想かを判断することは容易ではありません。逆境の中で苦しんでいる人たちは、理想的な話しを聞くと盲目的に飛びついてしまうでしょう。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません」(マタイ24:24-26、下線付加)とキリストが警告された日が非常に近づいているのです。起こっていること、現象を正しく判断するには、絶対信用できる普遍的な基準、―神ご自身の言葉―が必要です。それが「聖書」で、キリストが弟子たちに話されたすべて必要なことはまさに聖書に記されているのです。キリストはよくヘブル語(旧約)聖書を引用され、またイスラエル史を背景にたとえや教えを語られたので、キリストのメッセージを理解するには新旧約両聖書が不可欠です。

領土紛争に関して、聖書には多くの例が挙げられていますが、士師記11章の具体例は今日本が直面している問題解決にヒントを与えるかもしれません。イスラエルが神の掟から離れ、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」士師の時代、アモン人の王が「アルノン川からヤボク川、ヨルダン川に至るまでの、イスラエルが奪った私の領土を穏やかに返してくれ」と主張し、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。明らかに、国内が混乱状態にあった斜陽のイスラエルを軽んじての脅しでした。にわかにイスラエルの首領として祭りあげられた神の人ギルアデの遊女の子エフタは、まず冷静にアモン人の王に歴史をひもとき、アモンが主張している領土はかつてはアモンのものであったかもしれないが、三百年も前に、正当な戦いを経てイスラエルがエモリ人の王から奪ったのであって、その占領を神ヤーウェが認められ、今日に至っていること、もしアモン人が奪還を願ったのであれば、なぜ三百年の間にそれをしなかったのかと訴え、平和裏に外交で解決しようと図ったのでした。しかし、アモン人の王は道理を理解しようとしなかったため、戦争に至ってしまったのでしたが、主の霊がエフタを導き、イスラエルは勝ち、エフタはさげすまれていた同胞からも認められ、八人目の士師としてイスラエルを治めることになったのでした。神がすべてを支配しておられることを信じ、真の裁き主、神に判決をお委ねするとき、この世の問題も解決へと導かれるのです。

聖書に記されているイスラエル古代史だけでなく、近代史においても神の不思議なご介入でイスラエルが守られたことは数限りなく、キリストがマタイ25章で語られた「羊とやぎの裁き」、―イスラエルと異邦人との関係の原則「善であれ悪であれ、キリストの兄弟たちの一人にしたことは、キリストご自身に対してしたこととみなされ、それによって永遠の生命に入るか永遠の刑罰に入るかのより分けがなされる」― は、今日も適用できるのです。神を受け入れ、信頼し、聖書からの知恵で対処する以外に、諸外国との複雑な問題を解決することはできないでしょう。このような逆境を通して、全人類が神に目を向けるときが来ているのかもしれません。

冒頭に引用した詩篇は、神を信じるイスラエルの残りの者が偽りのメシヤ「反キリスト」、「暴虐の者」によって抑圧され、苦しめられる終末の末期、約束のメシヤ来臨の直前の艱難のときを預言してダビデが詠んだとされている詩篇です。三回繰り返されている「暴虐」はヘブル語の‘ハマス’で、その特徴は「よこしまな人」、くちびるに「まむしの毒」のある者、「悪者」、「高ぶる者」、「そしる者」と表現されています。この詩篇では、脅しと暴力で「暴虐の者」が神の民に対して何ができるだろうか、そのような状態に追い込まれたとき、神の民は「暴虐の者」にどのように対処すればよいのだろうか、「暴虐の者」がたくらんでいる悪、罪に神はどのように復讐してくださるだろうか、神は、ご自分の民、―不当な抑圧、暴虐に耐えて「悩む者」、「貧しい者」、「正しい者」、「直ぐな人」―にどのように報いてくださるのだろうかの四つの訴えが、神に向けられています。まず、詠み手ダビデは、最初の段落で敵の鋭い舌によるそしりと暴虐からの守りに力点を置いて祈り、次の段落で、神との親密な関係と、過去、敵の手から守ってくださった経験を通して、神の偉大さ、救いの力に信頼していることを確信を持って語っています。第三段落では勝利のための祈りをささげ、敵がブーメラン効果で滅びるように、すなわち、自らが仕掛けた罠に陥って滅びるようにと、懇願しています。

最終段落は、義なる神の裁きの正しさに対する確信です。神の掟に通じていたダビデは、逆境のさなかで「私の主、神、わが救いの力よ」と、歴史を支配しておられる全人類の王、主権者なる神‘アドナイ’に向けて祈り、敵に危害を加えて勝利することを望むのでなく、敵が自らの罪によって滅ぶこと、邪悪な者に神ご自身が裁きを下してくださることを懇願したのでした。湾岸戦争のとき用いられ効を奏した「ミサイル迎撃システム」はまさに、この詩篇の描写を地で行ったような印象を与えますが、しかし、この聖句が適用されるのは、イスラエルが神の御前に正しく生きているという条件下においてです。大艱難期に多くのユダヤ人が神に立ち返り、祈ることになると思われるこの詩篇は同時に、日本にも、個々人にも適用されることになるでしょう。

四季折々

今年は季節感のない秋を迎えました。

今夏は猛暑ではありませんでしたが蒸し暑い日がだらだらと続いたせいでしょうか、

九月末になっても、十月に入っても秋の訪れが少しも感じられませんでした。

 

季節に一番敏感なのが自然の草木ですが、まず紅葉が非常に遅れているようです。

身近な所では、金木犀の開花が遅れたため、毎年秋になると真っ先に

季節感を感じさせてくれるあの芳香がなかなか漂ってこないことに気づかれた方は

多かったのではないかと思います。ラジオ(関東地方)で、

「秋になると銀木犀、金木犀の順で開花し、金木犀の香りは毎年927日に

最初の芳香を放つが、今年は...?」と報道していましたが、

唯一の威風堂々としたいでたちで、拙宅の坪庭をかろうじて庭らしく保ってくれている

金木犀もやはり開花が非常に遅れたのでした。

 

今年は金木犀が芽吹きもせず、一体どうしたのかしら? と私が気づいたのは

偶然にも927日でしたが、今年は剪定(せんてい)が初夏と遅れてしまったせいで、

花芽を()んでしまったのか、形は(さま)になったものの葉という葉、

木全体が黄色っぽくなってしまい、先行きを懸念していた矢先のことでした。

それでも10月にかけて秋めいてきたのか、ようやく(あた)りから芳香が

漂うようになってきたにもかかわらず、拙宅の金木犀はつぼみひとつない(みじ)めな有様で、

今年は咲かないのかもと半ば(あきら)めていました。 

 

しかし、毎日見上げる私の期待に応えてくれたのか、10月初旬頃から

オレンジのつぼみが少しずつつき始め、何と例年よりも二十日ほども遅れて

ほぼ満開となったのでした。満開といっても木全体に花がついたのではなく、

限られた部分にだけで、例年より元気がないことは(いな)めません。

でも金木犀、独自の甘い香は十分楽しめます。

ダビデが詩篇19編で、ヨブがヨブ記1279で唱えているように、

それぞれの木々に、花々に、草草に独自に与えられた素晴らしい芳香はまさに、

自然に顕われる神のデザイン、支配、御臨在の揺るがせない証しです。

付近の金木犀に目をやると、剪定をしていない野生の状態のほうが、

木全体の枝枝に満遍(まんべん)なく花を咲かせて、葉も濃い緑でつやつやしているのに、

人工的に見た目に美しく形を整えたのは拙宅のと同じように葉が黄色っぽく

開花も遅く、一部だけの開花に留まったのはなんとも皮肉なことです。

公平な神は、天からの恵み、日光と雨で、すべての木々を(かたよ)りなく

十分顧みてくださっているのです。

日本の至るところで見られ、ごく当たり前に生息しているこの金木犀

英語では、「香るオリーブと呼ばれることを知って、私は早速、

百科事典で調べてみました。聖地の乾燥気候に合って生命力の強い「オリーブ」は、

何とモクセイ科の植物だったのです! 

芳香ある淡緑白色の花を初夏に咲かせるオリーブが、

日本でとても親しまれている銀木犀、金木犀と同じ科目の植物と分かり、

私には、イエス・キリストがいつも祈りの場としておられた

オリーブの木々に囲まれた「ゲッセマネの園」が急に身近なものに思えてきました。

 

狭い庭に草木を植えるとしたら聖書に登場する種、科目がよいと、

私は常々思っていますが、神が人類の祖アダムに告げられた言葉

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶ

すべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」(創世記129

は選択の参考になります。

しかし、これだけしか表記されていない表面上のテキストからは

選択の余地がありませんが、神は129に始まり、116

神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも

思いのまま食べても良い。』

で終わるテキストの中に、イスラエルの地に生息する、七種類の(たね)を持つ草木の名を

暗号で組み込んでおられたのです。 将来きっと現われるに違いない、

神推奨の植物を知りたいと思う者たちを考慮しての神の洞察だったのでしょうか。

 

コンピューター工学の発達によって可能になった聖書の暗号解読に

取り組んでいる人たちがたくさんいますが、お陰で、いろいろなことが

分かってきました。その一人、ジェフリー・サタイノバー博士によれば、

原典へブル語聖書には、この短いテキストの中に

「大麦、小麦、ぶどう、なつめやし、オリーブ、いちじく、ざくろ」

が暗号で入っているのです。ここには、イスラエルを象徴する三つの重要な果物、

ぶどう、オリーブ、いちじくのすべてが含まれています。

 

さらに興味深いことに、創世記27から33

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に

いのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

で始まり、

しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、

それを食べてはならない。それに触れてもいけない。

あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。

で終わるエデンの園についての段落に、やはり暗号で、食べることのできる

()のリストが組み込みこまれているのです。ここには、ユダヤ教の伝統から

予測された、代表的な二十五種の草木のすべて、

「小麦、ぶどう、つるぶどう、栗、雑木林、なつめやし、アカシア、

くろいちご(いばら)、杉、ピスタチオ、いちじく(やなぎ)、ざくろ、アロエ、

ギョリュウ(アブラハムがベエル・シェバに植えた柳、そこで祈った)、

(かし)、ポプラ、(けい)(シナモン)、アーモンド、

テレビン(マスティック―樹脂をニスに用いる)、いばら(とげのある植物)、

はしばみ(へーゼルナッツ)、オリーブ、かんきつ類、

モミ(ノアが箱舟を作るとき用いるよう命ぜられた木材で、口承の伝統では、

杉の一種で樹脂が豊富な種類か、あるいは、密度が非常に高い強固な種類かの

どちらかであったとする)」が見事に織り込まれているのです。

 

エルサレム神殿がソロモンによってレバノンから運ばれた最高の杉材で

建築されたことからも明らかなように、中東一帯では最も堅固で、

建築材として最もふさわしいのが杉とされています。木の種類の多い日本では

中東の杉に匹敵する木材は、(ひのき)でしょう。同様に、日本ではあまり生息しない

オリーブの代わりに銀、金木犀を植えるというようにすれば、日本でも

「エデンの園」を実現できるかもしれないと、実現可能な楽園にふと思いを

馳せてみましたが、挑戦される方はおられませんか? 

 

黙示録に預言されているように、将来、獣のしるしを受けた者でなければ

食物はじめすべての物品の売買ができない時代が来るとしたら、

しかもそのときが迫っているとしたら、庭に、または、プランターに

果樹や木の実の生る木々、食用にできる草花を植えることは賢明なことでしょう。

すでに実践に移しているクリスチャンもいるようですが、もしどの木を植えようか、

どの草花にしようかと迷っておられる方がおられたら、

聖書が暗号で入れている上述のリストの中から選ぶことは

一番手っ取り早い方法かもしれませんね。    

実りの秋、神の恵みを一層感じさせる時節です。

第203号:イザヤ書9:8-17:2012ニュー ヨーク・タイムズのベストセラー“The Harbinger”

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メシヤニック・ジューのラビ、ジョナサン・カーンの著書「先ぶれ」がこの世に受けたのはなぜか。「ダ・ヴィンチ・コード」や「ハリー・ポッター」がこの世に受けたのと非常に似ている謎解き、魔術、神秘の世界へのいざないをこの 世は好むようである。果たして、著者ジョナサン・カーンが意図した ように、「先ぶれ」は、災いの背後に神の裁きがあることを正しく理解し、神不在の人生を悔い改め、真の神に立ち返るようにと、人々を正しく導くであろうか?

主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリヤに住む者たちは、みな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。
それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで、主はイスラエルから、かしら尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行い、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
イザヤ書9:8-17

今年一月初めにアメリカで出版された、救世主信奉ユダヤ人のラビ、ジョナサン・カーン著の“The Harbinger (先ぶれ)”は、すでに2012年のベストセラーの地位を確保するほどの勢いで米国中に、また海外に広まっています。おそらく、邦訳版が出るのも時間の問題ではないかと思いますが、ニューヨークタイムズのペーパーバック版のリストの十位で世に出され、十日以内に四回も再版されたというこの書は、信者、未信者に関わらず、なぜそのように多くのアメリカ人を魅了したのでしょうか。救世主信奉ユダヤ人である、著者ジョナサン・カーンは、ニュージャージー州ウェインのエルサレム/ベト·イスラエル礼拝センターの主任牧師で、広く「ラビ」と呼ばれており、この教会のウエブサイトでは、合衆国で最大のメシヤニック・ジューズ(救世主信奉ユダヤ人会衆)の教会と称しています。カーンの主要なメッセージは、今日、米国は神の直接の裁きの下に置かれており、反逆のゆえに滅びた古代イスラエルの歩んだと同じ道をたどり始めている、滅びを免れる道は国家としての悔い改めしかないということで、書中では、預言者とジャーナリストのノリエル・カプランとの対話を通して、フィクションの形で、主張の根拠となる兆候、前兆が提示されていきます。米国の未来、行く末を握る鍵が聖書の預言に記されている古代の謎をひも解くことにあるとの興味深い触れ込み、提示された九つの先触れ、2001年9月11日の同時多発テロとイザヤ書9:10-11に記されている古代の謎との密接な関係等々が大衆受けしたのか、想像を絶した反響を呼んだのでした。

この書に対する評価はちまたでは絶賛されているようですが、クリスチャンの間では大きく二つに分かれ、内容の是非を問わず全面的に受け入れ、この世に悔い改め、神に立ち返ることを警告している画期的な書と高く評価している人たちがいる反面で、この書の聖書解釈上の重大な欠陥、多くの逸脱、誤導による潜在的危険のほうが、むしろもたらされる益よりはるかに大きいと憂える人たちも多いのです。中でも、デイビット・ジェイムズは、“The Harbinger (先ぶれ)” が出版された四カ月後に、“The Harbinger :Fact or Fiction?(先ぶれ、事実か虚構か?)”を出版し、「ジョナサン・カーンが信じているように、アメリカの未来の秘密を解く古代の謎が本当にイザヤ書9:10に含まれているであろうか」と疑問を投げかけました。『箴言』は「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」(18:17)と語っていますが、ジョナサン・カーンの主張に自己矛盾が多く見られることが指摘されるまでは、彼の謎めいた物語の展開のとりこになってしまった読者が結構多かったのではないかと思います。デビュー直後からカーンがドキュメンタリー番組、DVD録画、ユーチューブほか、多くのインタビューに登場、広く報道されたことはすべてを物語っているようです。

カーンは、イザヤ書9:10「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう」を鍵となる聖句として、この聖句から神の裁きのパタンを引き出し、九つの「先ぶれ」を文字通りアメリカに適用しました。

  1. 最初の先ぶれは、神の守りの取り除き。この神のしるしをイスラエルに適用するなら、守りが取り除かれたことによってアッシリヤ人の攻撃にさらされることになったのでした。アメリカに適用するなら、国の安全が取り除かれ、世界貿易センター双子ビル崩壊に象徴されるテロリストの攻撃にさらされることになったのです。
  2. 第二の先ぶれはテロリスト。主は究極的には神と神の民に反逆するアッシリヤ人を討たれますが、イスラエルの背信の間は、むしろアッシリヤがイスラエルを撃つことを許されました。ショック、恐怖、暴虐、脅威をもたらす敵として描かれているアッシリヤはまさに、標的を組織的に撲滅しようとはかる「テロリスト」を象徴しているのです。
  3. 第三は落ちたれんが。イスラエルに関して言えば、れんがは町の城壁を築くために用いられ、敵の攻撃後は修復が必然でした。アメリカに適用するなら、世界貿易センタービル崩壊時に大量のれんがが崩れ落ちたのでした。
  4. 第四は塔。イスラエルが破壊された町を再建すると豪語したとき、それは神に対する挑戦でした。アメリカの指導者たちが崩壊した双子ビルを再建すると明言したとき、傲慢、誇り高くも自らの力で再建を誓う、同じ挑戦の霊が働いていたのでした。カーンは、自らの主張をさらに裏づけるため、「切り石で建て直そう」がずばり「塔を建てよう」と訳されている七十人訳ギリシャ語旧約聖書(LXX)を引用しています。
  5. 第五は切り石。この用語は岩から切り出され、建造用に整えられたブロックのことで、イスラエルはアッシリヤに攻撃された後、山から切り出した石を持ち運び、破壊されたもろいれんがにとって代えたのでした。同じように、テロの爆心地に運ばれた二十トンの巨大なブロックは「自由の石」と呼ばれ、荘厳な儀式を通してアメリカの新しい力と確信を象徴する再建の岩盤、隅のかしら石とされたのでした。
  6. 第六はいちじく桑の木。中東ではどこにでもあるこの木は、米国では生長しない類ですが、テロ攻撃の爆心地の境界上で、双子ビル崩壊によって降り注がれたがれきで倒された木がありました。このプラタナスの木はまさに中東の「いちじく桑」の木に分類されるもので、英語版の「いちじく桑」だったのでした。
  7. 第七は杉の木。よくレバノン杉として翻訳されるこのヘブル語は、常緑の針葉樹の中でも松科の木とみなすのが一番ふさわしいようで、弱い木に代えて強い木を植えることがこの預言の趣旨です。ニューヨークの人たちは、樹齢六十年の倒れたプラタナスに代えて、同じ場所に「希望の木」と称して松科の木を植えたのでしたが、まさかイザヤの預言を成就することになろうとは、考えもしなかったのでした。
  8. 第八は首都で宣言された誓い、―大惨事の後、民の指導者たちはテロリストの暴虐に屈さない挑戦の公宣言をした―。2003年11月に、倒れたいちじく桑の木の代わりに、杉(松)の木が地中に下ろされ、2004年の7月には、落ちたれんがに代えて、二十トンの花崗岩が爆心地の床にクレーン車で下ろされたことにより、2004年の夏までに、古代イスラエルの預言に言及されているすべてのものが奇しくも爆心地に積み下ろされたのでした。かくして、アメリカ同時多発テロ事件の第三周期の2004年9月11日には、当時アメリカの副大統領候補のジョン・エドワーズの口を通して、ワシントンDCで、このイザヤ書の箇所が公に銘記されたのです。
  9. 第九、最後の先ぶれは預言。2001年の同時多発テロ事件の翌日に、米国州議会、上院の多数党総務がやはりイザヤ書9:10を引用し、最後に「私たちはそうしよう」と締めくくったことは、本人の意図に関わらず、まさに預言の言葉となり、上述したように三年後には、その宣言通りのことが現実になったのでした。イスラエルの掟では、法的に出来事が打ちたてられるには二人以上の証人が要求されますが、図らずも二人がイザヤの預言を引用し、アメリカが引き続き神に挑戦することを宣言し、その道を歩み続けていると、ジョナサン・カーンは解釈しているのです。

以下の解説のように、イザヤ書のこの聖句は八世紀BCEの神を捨てた北イスラエル王国の堕落ぶりを描いたもので、直接にはイスラエルに向けられたものですが、同時に、すべての人々に対して、神が警告として送られる自然界、社会におけるしるしから神の御旨を察知し、応えなければならないことを告げているものとして普遍的に捉えることのできるメッセージでもあるのです。

(1) 虚勢に対する裁き イザヤ書 9:8-12
「切り石」(10節)は豪邸を建てるのに用いられる贅沢な建築資材であり(アモス書5:11)、「杉の木」(10節)もカナン一帯(今日のパレスチナ)ではレバノンの杉に代表されるように、最も貴重な木材(列王記第一7:2-3)でした。当時イスラエルの各地で起こり始めていた「れんがが落ち(る)」「木が切り倒され(る)」(10節)という現象に象徴されているのは、神が天災、人災を通して民に警告のメッセージを送られたということです。民は落ちたり、倒れたりする災い、すなわち神からのしるしが暗示するものを悟って、悔い改めへと促されるべきであったのですが、正反対にそのような災いを一笑に付し、古いものが壊れてちょうどよかった、今度はもっと豪華なものに建て替えようと虚勢で対処したのでした。そのようなイスラエルの民(エフライム、サマリヤ)の様子が10節に風刺されています。民の思い上り、現実逃避の姿勢をイザヤは鋭く捉えたのでした。

実際、732BCEにシリヤの首都ダマスコがアッシリヤに征服されると、シリヤはじめ隣国のイスラエルに対するアッシリヤの風当たりはますます強まったのでした。東からは存命が危うくなった同盟国のシリヤ、西からは旧来の敵ペリシテ、しかもそれらの国々の背後には大国アッシリヤと、圧力は強くなる一方で、おごり高ぶったイスラエルはすでに逃げ場を失った獲物同然に追い詰められたのでした。悔い改めの心のない民に待っているのは神の裁きのみです。] (『一人で学べるイザヤ書』p.55-56から抜粋)

神の裁きは国家の最も神聖な場所を撃つことで始まると信じるジョナサン・カーンは、清教徒が最初に上陸し、神に奉献した地がまさにテロ爆心地の隣接地であったこと、米国は初代大統領ジョージ・ワシントンによって神に奉献された国であることを強調していますが、ジョージ・ワシントンがフリーメイソンの会員であり、また、ニューヨーク州の最初の首相で、ニューヨーク・フリーメイソンの最高名マスターであったローバート・リビングストンが作成した大統領就任宣誓によって、フリーメイソン主義の聖書に手を置いて儀式が行われたことには、全く触れられていないのです。米国が拠り所にした神が、聖書の証しする神ヤーウェでなければ、イザヤの預言に基づいた物語の展開自体に矛盾があることはいうまでもありません。

第202号:ルカ3:23-38:聖書の系図を間違って解釈して いませんか?

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系図には、驚くべき神意が秘められています。神は人類救済の御目的のために掟を作られ、守ることを命じられました。聖書に記録されている系図には、神が掟によって正しく裁かれること、預言を成就されること、創造以来、人間史にご介入しておられることが反映されているのです! 聖書は、神が約束されたことが人間史において成就したことを示して、まだ成就していない数々の預言をも含め、すべてが必ず成就することを保証しています。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサク……ヤコブにユダが生まれ……エッサイにダビデが生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、アビヤにアサが生まれ、アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、ゾロバベルにアビウデが生まれ……ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた、キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
マタイ1:1-16 、下線付加
教えを始められたとき、イエスは……人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって……ゾロバベルの子、サラテルの子、ネリの子……ナタンの子、ダビデの子、エッサイの子、……ユダの子、ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子……アダムの子、このアダムは神の子である。
ルカ3:23-38、下線付加

多くの反キリスト・カルトの格好の攻撃目標は、聖書に精通していない者にとっても比較が容易であるせいか、聖書の系図に当てられているようです。マタイとルカの福音書に載せられている系図と歴代誌との系図を比較して、その大きな違いから聖書の誤謬を指摘するわけです。聖書の信憑性を打ち砕くことができれば、聖書を偽りの神の言葉とみなすことはおろか、イエス・キリストを通しての救いを宣教するキリスト教なる宗教も根拠のない偽りの宗教として排斥することができるからです。彼らは、系図に関してだけでなく、福音書を互いに比較して違いを見つけると、「改ざん」という言葉を用いて、福音書記者がキリストの言葉をゆがめて伝え、挙句の果ては、キリストの初期の言葉は失われ何が本物なのか分からない、結局は全書すべてが信頼できない書であるとして、彼らの目標を達成させようとするのです。初めから聖書を信じまいとして読む人たちがそのような結論に至ることは当然ですし、聖書はそのような神を冒涜する人たちには初めから真理が明らかにされないように考案された「神の知恵の書」であり、預言書でもあるので、どの時代にも「あざける者」がいることをすでに予知、警告していました。しかし、問題は、そのような無責任な議論が、すでに信仰告白した者たちをも含めた多くの人たちに悪影響を及ぼしているということにあります。キリストは、神が無条件で招いてくださったキリストによる救いを受け入れた弟子たちに次のように言われました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません……わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです……しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。

また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」(マタイ13:11-16)。キリストは「人の子」に対するユダヤ人のあからさまな拒絶を境に、もはや公では「たとえ」以外は語られなくなりました。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ 7:6)と主が警告されたように、真理を拒絶する者は奥義を知る必要がないからです。ときが迫っているので、福音は、求め、捜し、たたく人々に優先的に語られなければならないのです。神の言葉の真理は今日も変わりません。キリストを求め、神の霊感によって書かれた御言葉の信憑性を信じる者には、聖書は時代を超えて、驚くべき神の知恵が息づいていることを垣間見させてくれるのです。

マタイとルカがともにダビデの血筋の、しかし明らかに異なった系図を記した背後には深い神意があり、マタイはダビデの子ソロモンの血筋のヨセフの系図を、ルカはダビデの子ナタンの血筋のヘリの子マリヤの系図を載せています。ルカは誤解のないように注意深く「イエスは……人々からヨセフの子と思われていた」(下線付加)と表現していますが、このギリシャ語は「法的に認められる」の意で、聖霊によってお生まれになったイエスはマリヤの子ではあってもヨセフの子ではなかったのですが、ヨセフの嫡出子として法的に認められ、ヘリの系図に連なったのでした。しかし、約束のダビデの血筋のメシヤが正規の手続きを経て嫡出子として系図に連なるには掟が必要でした。律法がモーセに与えられたとき、相続権は男子だけで女子は家系を継ぐことはできませんでした。ところが、イスラエルの民がカナンの地に入る直前に、勇気あるツェロフハデの娘たちの嘆願によって、「息子がいない場合、娘が同族の者と結婚するなら、娘を通して相続が認められる」という例外規定が、神ご自身の認可でモーセを通して定められたのでした。歴史を最初から最後まで把握しておられる神は千四百年も前に、メシヤに適用される掟をこのとき認可されたのでした。この特例の恩恵に与った人たちのことはエズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌第一にも記されています。マリヤに男兄弟がいなかったであろうことは、夫ヨセフに早死にされ、一家の大黒柱であったイエスをも十字架刑で失う直前、キリストがヨハネにマリヤの世話を託したことから推し量ることができます。また、夫ヨセフがマリヤと同族のユダ族であったことを明らかにするため、福音書に二人の系図が載せられたということは、世の終わりの侮る者の到来をも含め、すべてを予知しておられた神の知恵です。聖書の主張通り、キリストが聖霊によってお生まれになったのであれば、ヨセフの系図を載せる必要はないのですから。このようにして、両系図は、キリストが預言を成就するメシヤであることを遺伝的、合法的に裏づけることになったのです(「一人で学べるルカの福音書」―キリスト教神学の立場からではなく、聖書を歴史書、預言書、ダイナミックな神のご計画の書としてそのまま受け止める立場からの注釈書―参照)。

さて、マタイの系図のソロモンからバビロン捕囚時の王エホヤキン(エコニヤ)に至るまでの名を歴代誌第一3章の系図と比較しますと、四人の王たちの名が欠落していることがよく指摘されます。ヨラムとウジヤ(アザルヤ)との間にアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤが、ヨシヤとエホヤキンの間にエホヤキムの名が入るべきなのですが、なぜか系図から抹消されています。しかし、これも掟に従うとき、その理由が明らかになるのです。ユダの王ヨラムは、北イスラエルの背信王アハブと異端の偶像崇拝を北イスラエルに持ち込んだフェニキヤ人の王女イゼベルの間に生まれた娘アタルヤと結婚したことにより、この時代、ユダ王国にイゼベルの邪道、偶像崇拝が持ち込まれました。ヨラムの全兄弟抹殺、アタルヤの一人を残す全王子殺しはダビデ王朝撲滅をねらったサタンに扇動されたユダ王国の危機でしたが、暴力死を遂げた三人の悪王の名がマタイの系図から抹消されているのはまさに、モーセの十戒の第二番目の掟を犯した呪い、偶像を拝む者には「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト記20:5)、「その者の名を天の下から消し去る」(申命記29:20)が適用された結果だったのです。ユダ王国の晩年期には、ヒゼキヤ、ヨシヤなどのイスラエルを神に立ち返らせるために、全イスラエル十二部族を招集しての掟に則った神殿礼拝を再現させ、大々的な宗教改革を行った善王も登場し、イスラエルが完全に偶像崇拝から聖められるかのように見えた時期もあったのですが、ヨシヤが亡くなった後、ユダは列強のエジプトやバビロンに威嚇され、貢を支払う従属国に成り下がりました。マタイの系図から抹消されているもう一人の王エホヤキムは、預言者エレミヤによる神からの重大な警告が書き記された巻き物が王宮で読まれたとき、不敵にも、巻き物全部を暖炉の火で焼き尽くした王でした。その冒涜行為の直後に神は、エレミヤにエホヤキムについて「彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し……わざわいをもたらす」(エレミヤ書36:30-31、下線付加)と、呪いの預言を語られました。バビロンに盾ついたエホヤキムは残虐死を遂げ、野ざらしの埋葬で屈辱的な一生を終え、預言は見事に成就したのでした。その子エホヤキンについてもエレミヤは「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいない」(22:30)と呪いの預言を語り、バビロン捕囚に連れて行かれたことにより、事実上、この呪われた王たちの系図からメシヤが生まれるはずがないことが明らかにされたのでした。このように呪われ殺害された王たち四人がダビデ王朝の系図から外されたことは偶然ではなく、掟に照らされた結果の裁きの成就だったのです。厳密に言えば、エホアハズとゼデキヤもマタイの系図から外されていますが、二人とも主の御前に悪を行い、すでに占領下に置かれていたユダで君臨する間もなく、エジプト、バビロン各捕囚先で屈辱的な生涯を終えたのでした。

バビロン捕囚七十年後、神の憐れみにより本国帰還が許されたユダヤ人は、ゼルバベルをユダの総督としてエルサレム神殿の再建に取り組んだことが、エズラ記、ハガイ書に記されています。このゼルバベルの名がマタイとルカの系図の両方に「ゾロバベル」の表記で登場し、父「サラテル」も同様に記されています。後者はヘブル語聖書では「シェアルティエル」の表記で登場しますが、歴代誌第一3章では「ペダヤの子ゼルバベル」であるのに、エズラ記やハガイ書では「シェアルティエルの子ゼルバベル」というように食い違っており、聖書の攻撃者たちはまたも間違い発見と歓喜するのですが、このような問題は申命記 25:5-6 に記されている『兄弟の妻との結婚の義務』を適用することによって解決されるのです。兄弟が子を残さず死んだ場合、その兄弟の家系継続のために、「買い戻しの権利のある親類の者」がその兄弟の未亡人と結婚し、子を残すことが義務づけられていたのでした。ボアズがモアブ人ルツ(奇しくも、ダビデ王の曾祖母となる)と結婚したのは、まさにこの掟が実践された典型的な例でした。ルツの義母ナオミは孫「ボアズ」を「ひざに抱く」(邦訳では「胸」で適訳ではない)ことによって、自分の夫エリメレクの系図に連なる子であることを意思表示したのでした。したがって、「ペダヤ」はおそらく、子を残さず亡くなった「シェアルティエル」の未亡人と結婚し、生まれた子「ゼルバベル」はシェアルティエルの子として家督を継ぐことになったに違いありません。このように、理由のある表記の食い違いは、系図では非常に多いのです。ルカの系図で、「エコニヤ」ではなく「ネリ」が「シェアルティエル」の父として挙げられている背後にもおそらく、この『兄弟の妻との結婚の義務』が関わっていたことが考えられるのです。しかし、聖書の系図には様々な機能、形状、統一だけでなく、リストの意識的な短縮、部族間の合流など『流動性』が適用されているので、論争に系図を用いるとサタンの罠に陥ると、パウロは警告したのでした。

聖書は神の人間史へのご介入の赤裸々な史実を記録した真理の書で、そのダイナミックな一貫性、時代を超えた継続性の醍醐味を味わうには、重箱の隅をつつくような近視眼的、猜疑的、狭小な姿勢ではなく、最初から最後まですべてを総括的に把握し、神の御旨を知ろうとする意欲的な姿勢で臨まなくてはならないのです。

第201号:マタイ18:1-10:聖書が語る幼児の救い

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聖書の中の子ど もの位置づけは「救いの相続者」。人類学者の研究は、子どもは発育過程で自然に創造論を受け入れ、天地が崇高なる存在、神の御目的とデザインで構成されていることを信じていることを 明らかにした……

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小さい者たちの一人にでもつまづきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。また。もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりも見下げたりしないように気をつけなさい。まことにあなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
マタイ18:1-10

信仰告白の年齢に達していない幼児の洗礼(No.198、No.197、No.195参照)に関して、伝統的な教会が幼児洗礼を礼典に定めているため、それを否定する解釈に抵抗を覚えるクリスチャンが多いようですが、教理を優先するか、聖書の主張を優先するかを選ぶなら、後者をとるべきであることは明らかです。むしろ、なぜ反発を感じるかの背景には、聖書が幼児に関してどのように語っているかを理解していないことが指摘できるようです。聖書が、幼児を初めから神の国に入る者として語っていることを知れば、だれも、救われるために幼児に洗礼を授けなければならないと信じる者はいないでしょう。今月は、幼児の救いに関する聖書の主張が、人類学者によって裏づけられたという情報をも交えて、考察してみたいと思います。

旧新約両聖書は一貫して、幼児の救いを説いています。ヘブル語(旧約)聖書のサムエル記第二に、一生、神への忠誠を守り通したダビデ王が、生まれて七日目に亡くなった子どもに対して語った言葉があります。「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」(12:23、下線付加)は、幼くして死んだ子どもの行く先が神の御許であることを明白に裏づけている聖句です。罪を犯したときすぐに悔い改め、「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」と祈り、「まことに、主は公義を愛し、ご自分の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれ……そこにいつまでも住みつこう」(詩篇 37:28-29)と主のしもべである自分の死後の行く先が主の御許であることを確信していたダビデは、死んだ子どもの行く先を当然主の御許として語ったのでした。ヘブル人への手紙には「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(1:14、下線付加)と書かれており、この聖句から、救いに入れられている者に守護天使が遣わされていることが裏づけられます。冒頭に引用したマタイの文脈では、「小さい者たち」に「彼らの」天の御使いが遣わされており、これらの御使いはすぐに行動に移せるように、神の下される命令をいつもうかがっていると記されていることから、このように天の御使いに見守られている子どもたちは「救いの相続者」、救いに入れられている者ということになります。しかし、御使いはあくまでも仕える霊で、祈り、崇拝の対象でないことは明らかです。御使いによる守りは、御使いにではなく、神への感謝になるのです。さらに守りの詩篇といわれる詩篇「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」(91:11)では、御使いたちが複数形であることから、各々の子どもたちに二人以上の御使いが遣わされているかもしれないと考えることができます。

また、ニサンの月の第十日は、モーセの掟では、過越のいけにえの子羊が選択され、完璧かどうかの吟味が始まる日で、教会暦では、この受難週のシュロ聖日に、キリストがろばに乗ってエルサレムに入城されました。大群衆がキリストをユダヤ人のメシヤとして迎え、特に宮の中では「ダビデの子にホサナ」と子どもたちまでが叫んでいるのに腹を立てた祭司長、律法学者たちは、キリストに「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか」と、キリストに詰め寄りましたが、キリストのお答えは「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか」(マタイ 21:16)でした。聖書に精通していると自負していた当時の宗教的指導者たちにキリストは、詩篇「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした」(8:2)からの引用で答えられたのでした。彼らの心の中の陰謀をすでに見抜いておられたキリストの何と冷静で、的を射たお答えだったことでしょう。この箇所は、キリストがエルサレム入城後、宮で不当な売買をしていた商人たちを追いだす「宮聖め」をされた後のキリストの御言葉で、新約聖書はLXX(ギリシャ語訳旧約聖書)からの引用のため、ヘブル語聖書の「力」が「賛美」になっている違いはありますが、紛れもない詩篇への言及でした。この文脈から二つの点が指摘できます。(1)神は「乳飲み子」を用いられる:聖書に誕生の次第が記されているモーセ、サムエル、イエス・キリスト、これらの赤子誕生はイスラエル史に転換期をもたらしたのでした。

(2)神は「幼子」を用いられる:キリストの受難週、シュロ聖日に幼子たちが全身全霊で主を迎えた賛美の声は純粋で、まさに、天(神の御旨)を地にもたらす「力」であったのです。他方で、非難、脅威に委縮し、人目を気遣って声を落としたに違いない大人の不純な動機は、主への真の賛美の声にはならなかったでしょう。また、キリストが引用されたこの詩篇は、主に敵対する者が黙らされるのは、権力ある者、力ある武勇の者によってではなく、「一つ心で父なる神に依存する純真な子どもたち」によってであることをも告げているのです。究極的に、「敵、復讐する者」に対して神ご自身が復讐されるので、幼子たちのように無力でいいのです。神への信頼を持ち続けさえすれば救いを得るのです:「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから」(申命記32:43)。

聖書の中の幼子の位置づけはこのように「救いの相続者」であることが明らかですが、人類学者の研究成果にも目を留めてみましょう。2008年11月に、オックスフォード大学の人類学者ジャスティン・バレット博士は、子どもたちは真の神を信じる者として生まれ、宗教教育、教化を経て宗教心、信仰を習得するのではないことを発表しました。博士は、子どもたちはこの世のすべてが当然、目的の下で創造されたと思っており、崇高なる存在を信じる傾向を生まれつき持ちあわせていると唱え、たとえ家庭や学校で信仰について教えられなくても、子どもたちには信仰心があり、孤島に一人で生きるような環境下に置かれたとしても、真の神を信じるようになるであろうと、語ったのでした。また、過去十年ほどの科学的研究の結果、子どもの心には自然な発育過程で、大人がこれまで考えていたよりはるかに多くのことが育まれているという裏づけが優勢を占めることも発表されました。たとえば、自然界が目的をもってデザイン、構成されていることや、その目的の背後に何か知的な存在があることを当然と捉える傾向は、子どもたちに発育過程で自然に育まれることなのです。また博士は最近、「鳥はなぜ存在するようになったのだろう?」と聞かれた六、七歳の子どもたちが「素晴らしい音楽を作るため」「世界を楽しくするため」と答えることなど多くを例証して、ケンブリッジのファラデー学究機関での講義や英国BBCラジオ4で、「子どもたちに心理学的実験をした結果、子どもたちは本能的に、およそこの世のすべてのものが特別な目的の下でデザインされたと信じていることが分かった」と語りました。さらにバレット博士は、子どもたちは四歳までに自然に、人工のものと自然や自然界の産物との違いを理解することができるように成長し、たとえ家庭や学校で進化論(人間の仮説)を教えられたとしても、はるかに創造論を信じる傾向にあり、「自然の発育過程で神の創造、知的なデザインを信じる子どもたちにとって、進化論を信じることは難しい。進化論は人の心には不自然な教えである」と結論づけたのでした。

冒頭に引用した箇所でキリストは、いつも比較で自分を見、力を誇示したいと思っている大人と自らの無力さを知っている子どもたちの大きな違いを指摘して、「だれが一番偉いのでしょう」という弟子たちの質問への答えとされました。神に受け入れられなければ、天の御国に入ることはできません。「救いの相続者」にはなれないのです。子どもへの虐待はさることながら、新生児の生死も父親の一存で決定された、女子どもの地位が非常に低かった当時、「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」というキリストの教えは革命的でした。神の国の原則は、人が編み出したこの世の原則、伝統、習慣など既成概念を捨て去らないかぎり、受け入れることができないような法外な教えだったのです。この世で力があると思っている大人が幼児を、あるいは、権力ある者が弱者をつまずかせるとき、つまずかせる者の罪の恐ろしさを、キリストは、神の国とは正反対の「ゲヘナ」、地獄に入れられる者として描かれました。

真の神を知って生まれ、成長するはずの幼児がこの世の教育、環境、知識で無神論者になり果てるとしたら、つまずきを与えるのはこの世の教えです。聖書は、西暦一世紀以降キリスト教会に忍び込み、その流れが今日に至るまではびこっている異端、救いへの道を「霊知」として説いたグノーシス派の教え「反対論」「俗悪なむだ話」(テモテ第一6:20)に、至る所で警告を発していますが、この世はまさに無神論の「人の知識」で毒されています。この世の支配者が神に真っ向から反対するサタンであるため、真の神、真理が阻害されるのです。この異端は、キリストの贖いの死を信じる信仰による救いではなく、「人はみな神性を備えているが、邪悪な肉の世、この世に捕らえられているため、解放される必要がある。イエスはこの世からの脱出の奥義、霊知を与えるために来た。人はもともと属していた『光の国』に戻る必要がある」と、奥義を知ることによる救いを説くのです。神の存在を否定する進化論はじめ根拠のない仮説、キリストを利用したこのような作り話、欺瞞は残念ながら今日、ちまたに満ちているのです。サタンの攻撃の矢面に立たされているのは救いの相続者、子どもたちなのです。

第200号:歴代誌第一21:1-22:1:天災を通して語られる神

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聖書は、神の警告を無視した結果、かつて何が起こったかを詳述し、何が起こるかを明確に預言しています。真実の記録の書であり、神の預言の書である聖書だけが、今日、全世界が直面している問題、危機に対する唯一の答えを提示しています! 憐れみの神は、究極的な裁きが下る前に、キリストの教会に、日本の人たち、全世界の救いのために真剣に執り成す「とき」を与えてくださっています。同時に、まだキリストを受け入れていない多くの人たちにとって、今こそ、悔い改めて、主を受け入れる「とき」なのです。

ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。ダビデはヨアブと民のつかさたちに言った。『さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラエルを数えなさい。そして、その人数を報告して、知らせてほしい。』すると、ヨアブは言った。『主が、御民を今より百倍も増してくださいますように。王さま。彼らはみな、わが君のもの、そのしもべではないのでしょうか。なぜ、わが君はこんなことを要求なさるのですか。なぜ、イスラエルに対し罪過ある者となられるのですか。』王はヨアブを説き伏せた……
この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた……主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万の人が倒れた。神はエルサレムに御使いを遣わして、これを滅ぼそうとされた。主は御使いが滅ぼしているのをご覧になって、わざわいを下すことを思い直し、滅ぼしている御使いに仰せられた。『もう十分だ。あなたの手を引け。』主の使いは、エブス人オルナンの打ち場のかたわらに立っていた。ダビデは、目を上げたとき、主の使いが、抜き身の剣を手に持ち、それをエルサレムの上に差し伸べて、地と天の間に立っているのを見た。ダビデと長老たちは、荒布で身をおおい、ひれ伏した。ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行ったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。』すると、主の使いはガドに……『ダビデは上って行って、エブス人のオルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない。』……ダビデはオルナンに言った。『私に打ち場の地所を下さい。そこに主のために祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に下さい。神罰が民に及ばないようになるためです……こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげて、主に呼ばわった……そこで、ダビデは言った。『これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。』
歴代誌第一21:1-22:1

昨年の東日本大震災と津波による福島原発事故以来、同胞愛に心動かされた日本の人たちの、被災された方々や被災地の復興に向けての懸命な支援活動が続いています。心身ともに大きな痛手を受けた人々、町々、環境が一日でも早く、改善され活気を取り戻すことは私たちすべての日本人の祈りです。復興の明るいニュースは私たちに、人々の協力、努力によってこのまますべてが順調に行くかのような安心感を与えますが、しかし、日本の現状がどれほど悲惨であるかは実際には十分に国民に知らされていないようです。政府が、今後起こり得る万が一のために備えて、都心に住む者たちをも含め何千万人もの日本人の緊急避難場所を隣国に打診していることが、海外のマスメディアや日刊新聞の英語版で伝えられています。政府が作成した最悪のシナリオでは、当初から脆弱性が警告されている福島原発四号機の使用済み核燃料の崩壊の可能性だけでなく、敷地内の他の原子炉崩壊による放射能汚染が前代未聞の破局を招く可能性が訴えられており、このことが起これば、日本だけの問題ではなく、世界的な破局に進展することは間違いないのです。幸いにも、余震を含め、福島を直撃する大地震が再度起きていないので、危険な状態でも何とか持ちこたえているのが現状のようですが、政府の科学者たちは、三十年内に首都圏界隈にマグニチュード7級以上の地震が起こる可能性を70%と試算しました。ところが、五月初めの BBC 系海外マスメディアの情報で、今年一月に東大の有名な地震学者のグループがその可能性を四年以内と試算したことで論議がひき起こされていたことが知らされました。この可能性はあくまでも計算値ですから、三十年たっても何も起こらないこともあるわけで、私たちはこのような数値に脅かされることはないのですが、世界中を見渡しても明らかなように何か大変なことが迫っているという危機感をだれも無視することのできない時代に私たちが生きていることは確かです。特に人間にとって不可抗力な領域でのかつてなかったような災いの連続は、天地を支配しておられる創造者なる神以外の何ものからの警告でしょうか。異常気象、地震、津波、竜巻、台風、洪水、干ばつ、水質悪化、海陸空の動物の大量死、昨年秋から目立って北半球で起こり始めている大地、大空のうなり、うめき現象、農作物に大打撃を与えているボール大の雹害等々、数え上げればきりのない自然現象による災いが今世紀を特徴づけています。どの領域においても、私たち人間の努力にもかかわらず、この世はもはや解決策を提供することができないところまで深刻に追い詰められています。しかし、生きて働く真の神を信じる者には、この世の現象に全く左右されない確実な希望があります。その希望は聖書に記され、どのような方が真の神であるかがそこに証しされています。多々ある宗教も希望を語りますがそれを裏づける根拠がないのとは正反対に、聖書に証しされている神は、人間史の中でのご自分のお働きを聖書に歴史的に書きとめられたのでした。その多くは、前もって約束されたことの成就、すなわち、神の言葉、預言が人間史において実現した記録になっており、同時に、まだこれから起こる多くの預言も記されています。過去の預言が百パーセント成就したのであれば、まだ成就していない預言のすべても必ず起こると信頼できるわけです。千六百年にわたって、神の霊感によって書かれた神の言葉、聖書は人知をはるかに超えた永遠の書で、そこには、人間史の最初から最後の時代にまで関わる驚くべきメッセージが語られているのです。

今月は、人間の営みの背後に、神に挑戦する堕天使サタン、―人をだまし、神から引き離す者―が働いていることを明確に語っているくだり、―ダビデ王の人口調査の結果、イスラエルの国中に広がった災いに対し、国の指導者が罪悔い改めて執り成し、万事が益に変えられたこと、神がサタンの策略からイスラエルを守られた出来事―から、神が下される災い、危機に直面したときの唯一の解決策を学ぶことにしましょう。冒頭に引用したくだりでは、サタンが予告、警告なく突然登場します。サタンは新約聖書では最後の書「黙示録」で初めて、竜、蛇、だます者として正体が暴露されますが、キリストの荒野の試みに登場して以降は姿を潜めているためか、サタンという実体はなく、悪を象徴する心象現象にすぎないというような誤った解釈がなされてきたようです。しかし、ヘブル語(旧約)聖書では、神に挑戦し、悪を誘発する「者」として、しかしその働きが神によって制限されており、とうてい神には及ばない者として、ヨブ記、ゼカリヤ書とこの歴代誌の三書に登場しています。預言書には、サタンが背信の御使い、被造物であることを描写した箇所もたくさんあります。

ダビデの人口調査が神の怒りを買い、そのために災いが下されたこの出来事に関して、サムエル記も歴代誌もともに、最初の時点では懲らしめはダビデに対してではなく、背信のイスラエルに対して下されたことを明らかにしています。モーセの掟には、人口調査を行うとき、各自が贖い金を納めなければ、災いが起こりうることが警告されています。このこと一つ取り上げても、神の宮への贖い金とは無縁に人口調査を命じたダビデは掟を無視したといえるのですが、民の頭数を数えることはそれ以上の誘惑をはらんでいたのでした。支配下に徴兵の対象になる者たちがいかに多くいるかを知ることで、国家の力が保証され、安泰だと思いをはせるとき、すでに神ではなく、目に見えるものへの依存が始まっているのであり、サタンの仕掛けた罠に陥ることになるのです。もし人の行く末のすべてが神の御手にあることに信頼しているのであれば、そのような実態をつかむ必要はないはずでした。にもかかわらず、忠告した家来を説き伏せてダビデは自分のしたいことを決行したのです。神を憤らせたのは人口調査自体よりもむしろ、忠告にもかかわらず自我を決行したダビデの動機、罪への迎合でした。しかし人口調査の半ばで罪の呵責に駆られ、自分の愚かさに気づき、罪の赦しを請うダビデを神はご覧になります。そこで、預言者ガドを通して裁きを宣告された神は、憐れみも示され、ダビデに、三者択一で懲らしめを選ぶことを許されました。「私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません」と、主ご自身の裁量にすべてを委ねたダビデは「主の剣、疫病が地に及び、国中を荒らすこと」を選びました。ダビデは自分だけに神の裁きが厳しく下ることを選んだつもりでしたが、主の御使いがイスラエルの全土を北から南へと疫病の剣を振り上げて襲い始めるや、またたくまにイスラエルの人たちが七万人も倒れるという大惨事に発展したのでした。このままではイスラエル全土が全滅です。しかし被害の最中、ダビデの心の中に生じた苦しみ、悲痛な叫び―「はなはだしい悪を行ったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください」―を聞かれた主は、御使いに命じて疫病をとどめられました。それは、北方から南に向かっていた御使いが、ちょうどエルサレムの「オルナンの打ち場」の上空に来たときでした。

それはまた、ダビデと長老たちが神の怒りをなだめるために、当時ギブオンに置かれていた主の祭壇で主にいけにえをささげようとギブオンに急いでいる途上のことで、彼らもちょうどそのオルナンの打ち場にさしかかっていました。ダビデら一行は、抜き身の剣をエルサレムに向けて差し伸べている御使いがまさに上空に立っているのを見上げ、恐怖に駆られます。もはやギブオンに向かって進むことができず、哀悼の意を表し、ただひれ伏していたとき、神は再び預言者ガドを通して、御使いが指し示しているその場に「主のために祭壇を築かなければならない」と命じられたのでした。ダビデは主の御旨がエルサレムに祭壇を築き、もはやギブオンに出かけるのではなく、エルサレムでいけにえをささげることであることを知り、このオルナンの打ち場のある地所を買い、直ちに築いた祭壇に全焼のいけにえをささげました。主は天から火を下していけにえを焼き尽くし、祈りに答え、イスラエル全土に広がろうとしていた疫病は、エルサレムより北方まででくい止められたのでした。

この出来事は、今日日本が直面している深刻な問題の解決に鍵を与えています。人口調査という出来事で神が王ダビデを憤られた罪がイスラエル全体の罪であったように、日本国民すべてが、神の御旨ではなく自我に生きることによって背信の罪を犯しています。全人類の唯一真の神は、日本に前代未聞の地震、津波、被爆という災いを下されたことによって、特に、主の再臨はまだ先のことだと危機感もなく眠ってしまっている霊的指導者「キリストの教会」が悔い改め、霊の目で神の御旨を察知し、まだ真の神を知らない多くの日本の人たちの魂の救いのために執り成すようにと、警告しておられるのです。このまま心底からの執り成し、悔い改めがなければ、日本全土の滅びは間違いありません。しかし、憐れみの神は今、致命的な災いが起こらないように、しばし天地、天候を制御し、日本の人たちが神に立ち返る「とき」を与えてくださっています。主以外に日本を救う方がいないことにまず「教会」が覚醒し、警告に答えなければ、災いは全土に及ぶことになるでしょう。

第199号:ヨハネの黙示録17-18章:エルサレムとバビロン

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聖書の預言通り、イスラエルと都エルサレムは千九百年ぶりに復興した。今日、都バビロン(イラク)の復興は世界中の注目を集めている。果たして、都バビロンの完全な滅亡の預言はすでに成就したのだろうか? 世界第二の原油埋蔵国イラクに対する世界中の復興支援は何を物語っているのだろうか……

第197号:使徒の働き16:16-34:救われるた めには、何をしなければなりませんか ― 西暦一世紀、キリストが弟子たちに伝えられた原始福音は単純明快です―

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「聖書の示すとおりに、キリストが十字架上で私の罪のため死んで 贖ってくださったこと、キリストの埋葬、甦りを事実として信じることです」 ―宗教、儀式、教理、派閥……を救いの条件につけ加えてはならないのです!―

第196号:マタイ21:33-44,ホセア書12:10,14:9:神のぶどう畑

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イスラエルに対する神のとこしえの愛と、 神の御旨に応えなかった反逆のイスラエル異邦人を用いての神の懲らしめとイスラエルの苦難。しかし、究極的には、ユダヤ人のメシヤ、イエス・キリストを通して救われるイスラエル。今日、全人類がキリストによって一つとされる「神の国」の到来を待ち望んでいる!