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第272号  使徒の働き4:4-35

「教会」の定義にまつわる興味深い英国史


「教会」の本当の意味は? 建物、教派、組織、制度、施設…? それとも、キリストの群れ、集まる信徒…のこと? 神の御旨ではない、人の手に成るものがすべて取り除かれる「神の裁き」に直面している今日、キリスト者は「神に喜ばれる礼拝」の真の意味を真剣に吟味しなければならない…

ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。彼らは、二人が民を教え、イエスを例にあげて死者の中からの復活を宣べ伝えていることに苛立ち、二人に手をかけて捕らえた。…彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、…あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。…「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、我々はそれを否定しようもない。しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」…
そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。…これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。…今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。

     使徒の働き4:4-35(新改訳2017)


西暦一世紀、イエス・キリストが十字架上で亡くなられ、埋葬され、三日目に甦られ、昇天された後、ユダヤ暦のペンテコステの日に、キリストの約束を守ってエルサレムに留まっていた信徒たちの上に、聖霊が下られました。この日以降、父の御霊であり、キリストの御霊でもある聖霊が、イエス・キリストを自分の罪を贖ってくださる「救い主」として信じ、受け入れた者たちのすべてに内住され、キリストの民が誕生しました。
この群れは「教会」と呼ばれるようになり、ほぼ二千年を経た今日に至るまで、キリストの福音、神の国の教えが、キリストの民、キリスト者を通して世界中に宣べ伝えられています。

キリストが直接教えられた福音を、甦りの主を体験した弟子たちや信徒たちが、聖霊の力に満たされて伝えた原始キリスト信仰の時代は、新約聖書が伝えているように、迫害の時代でした。しかし、聖霊に依存しなければ何もできない自らの弱さ、罪深さを知って日夜、罪を悔い改め、キリストを仰いでいた使徒、信徒たちを通して神は、この世の人々の魂を救う大きなわざ、―知者をも驚かせる大胆な宣教、癒やし、しるし、不思議― をなされたのです。
迫害によっていつも死に直面させられていた使徒、信徒たちにとって、自分たちの宗教王国を広めようという考えは毛頭なく、彼らはみな、ひたすら、キリストご自身が地上に戻って来られ、神の国を支配してくださることを待ち望む、再臨信仰に生きていました。

このことは、昇天直前のキリストと使徒たちとの会話に反映されています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」とキリスが話されたとき、使徒たちは「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねたのでした。
このときキリストは、使徒たちの質問に直接お答えになる代わりに、
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8、下線付加)
と答えられ、ご自分の再臨、―そのときキリストは、『ヨハネの黙示録』に預言されているように、この世を支配する王として再び地上に戻って来られる― の前に、まず、福音が全世界に宣べ伝えられなければならないことを示唆されたのです。

新約聖書が描写している原始キリスト信仰の時代のキリストの群れ、「教会」は今日の概念とは大きく異なり、信徒が家々に集まり、祈り、御言葉を学び、証しや所有物を分かち合い、助け合い、励まし合う共同体でした。内住のキリストによって生かされていた信徒がキリストの名によって集まり、御言葉を学び、主を賛美し、祈るとき、そこが「教会」でした。
今日の「教会」の概念は初代教会の原始キリスト信仰とは無縁で、ローマカトリック教会時代以降の産物ですが、そのことが英国の教会史に残されていたことが分かりました。「教会」の定義に関して、非常に興味深い実話を考察してみたいと思います。

十七世紀初頭にスコットランド王ジェームズ六世が、英国王ジェームズ一世になったとき、王は非常に堅固なキリスト信仰をもたらしましたが、カトリック教会に対する思いやりも持ちあわせていました。当時、ほとんどの聖書は、平信徒はおろか聖職者でも読むことのできないラテン語で書かれていました。
ジェームズ王は、臣下のだれもが聖書を英語で読むことができるようにと願い、プロテスタントの学者たち、―英国国教会の聖職者たちから反対派の非協調的な人たちまで、幅広い層の識者たち― を集め、聖書の異なった部分を各々の学者に割り当て、それらをまとめて、聖書の英語訳を完成させたのでした。これが、欽定訳聖書、あるいは、キングジェームズ訳聖書と呼ばれ、今日まで広く読み継がれてきた聖書です。

しかし、さまざまなグループの学者たちがよく連携して翻訳作業に携わった結果、最後まで意見が分かれ、一致を見ない言葉が一つありました。そこで、学者たちは、ジェームズ王に助言を仰ぎ、王の裁量に任せたのです。それは、ギリシャ語の“ἐκκλησία(エクレシア)”、で、新約聖書のギリシャ語原語では、「集まり」、あるいは、「会衆」、―特定の目的のために献身する人々の集まり― の意で用いられている言葉です。
反対派の学者たちは、この言葉を「会衆」と訳すことを望んだのですが、英国国教会の聖職者たちは、ローマカトリック教会の聖書と同じように、「教会」と訳すことを望んだのでした。裁量を任せられたジェームズ王は、英国国教会の聖職者たちに同意し、欽定訳聖書に訳語「教会」が採用されることになり、それ以降の英語訳聖書のほとんどは、この訳語を用いるようになったのでした。

このことから明らかなように、聖書のギリシャ語原語「エクレシア」には、今日、「教会」の概念となっている、建物、教派、組織、制度、施設といった意味合いは全くなく、ただ、キリストの群れ、集まる信徒のことなのです。キリストが定義されたように、
あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:19-20)
がまさに、真の「教会」の定義です。
このギリシャ語言語「エクレシア」は、ヘブル語では“קָהָל(クァハール)”で、神の御旨を伝達する手段として神が選ばれたヘブル語、ヘブル思想で「教会」の真意を理解することはふさわしいことだと思われます。

今日、「教会」の意味があまりにも広義になり、原形をとどめなくなってしまったことは憂えるべき恐ろしいことです。それは、
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:30)

とパウロが人造の偶像に満ちたアテネの町の人々に向かってメッセージを語ってから二千年近くも経った今日、まさに終末の末期、「教会」も含めた神の家が裁かれる時代に入っているからです。
正しい者たちがかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。(ペテロ第一4:18)

とペテロが警告した時代が文字通り今日だからです。

初代エルサレム教会がステパノや使徒ヤコブほかの信徒たちをすでに殉教で失い、ガラテヤの教会では、ユダヤ人からの迫害を避けるため、異邦人信徒たちさえ割礼を強いられ、背信への誘惑にさらされていた時代、厳しくなる迫害のさ中、特にユダヤ人信徒たちに向けて匿名で『ヘブル人への手紙』を書いたと思われるパウロは、個々のキリスト信徒が最後まで揺り動かされることなく、永遠に残るものとして留まることができるようにと、メッセージを送っています。
あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。…あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。『もう一度、わたしは、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは…敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。』私たちの神は焼き尽くす火なのです。(ヘブル人12:25-29、下線付加)

は、神の御旨ではない人の手に成るものすべて、―この世俗の世に属するものだけでなく、「教会」と称する建物、教派、組織、制度、施設もすべて― が最後には焼き尽くされることになるとの厳粛な警告です。