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Yさんの証し その17

熊本大震災のために避難所で不自由な生活を強いられている方々に思いを馳せて

14th May '16
頌主

お祈りと御指南に心から感謝申し上げます。

御存知の通り、熊本は長崎ほどではないものの、他県に比べカトリック信仰がある程度息づいている地域です。母は若かりし頃、主(イエス様)の教えを深く知る機会に何度か恵まれながら、その機会を活かすことができずに今日に至っています。
私が改宗(イエスキリストによる贖いを信じ、救いを求めたこと)したことについて、母は特に反対しませんでしたが、それはどちらかというと「娘は嫁ぎ先の信仰に入るもの」という考えから来ていたようです。

今回の震災で、直接的な被災を免れながら、阿蘇に心の拠り所を置いていたために精神的にズタズタになってしまった母の声を電話越しに聞きながら、どうしたら父母、兄一家、親戚、友人たちが真の神、イエス・キリストを心から受け入れてくれるだろうか、と思いを巡らす毎日です。
私の改宗の経緯を話したとき、家族たちはイエス・キリストの贖いによる救い、イエス・キリストの教えの一般的事実をどうやら知っているようでした。その上で、彼らがキリストを受け入れるか否かは、彼らと主の関係であり、私が立ち入る問題ではない気がしています。

たとえば、あまり良いたとえではないかとは思いますが、信仰は「馬に水を飲ませること」と非常に似ているように思います。他の人が馬を水のある所まで連れていくことはできても、馬自身が水を欲し、首を屈めて飲もうとしないかぎり、馬に水を飲ませることはできないからです。
主が私の家族を憐れみ、心を開いてくださいますように。そして皆が主を受け入れてくれますように、と祈っています。

熊本大震災のために避難所で不自由な生活を強いられている方々に思いを馳せ、ふと『仮庵祭(Sukkot)』の仮庵のメッセージが脳裏に浮かびました。
Rabbi Irving Greenbergは仮庵について次のように記しています。

ラビ、アーヴィング・グリーンバーグの「仮庵」についてのメッセージ

『仮庵』は、本当の「守り」とは何かについて、教えてくれる。
人は本能的に安全保障の「堅固な壁」を築きあげようと努める。
しかし、私たちは生命を締め出している。
死、災い、予期せぬ出来事さえも取り除くことを願って、宝、権力、地位の象徴を積み上げようとして。
「堅固な安全保障」探究の行きつく先は往々にして、安全を与えてくれる「もの」を拝む偶像崇拝である。
実体のある安全保障を得ようと、私たちは最後には価値あるもの、愛する人たちをも犠牲にするのである。
『仮庵』は、私たちに、このような「まやかしの安全保障」を捨てるようにと、駆り立ててくれる。

一週間、仮庵で過ごすことによって、ユダヤ人は、「堅固な壁」と「制御可能な安全保障」というものに対して抱いていた神話的要素を取り除く。
それは、自己防衛を放棄するということではなく、その限界を認識するということである。
人は、危害から守ってくれるものとして築いても、結局は己(おのれ)を生命から切り離してしまうにすぎない「頑丈な壁」を築くのではなく、己の弱さを受け入れて、より深く生きようとすべきである。
『仮庵』は、堅固な家や人の努力の価値を否定するものではない。
それどころか、ユダヤ人は、一年に五十一週、家に住むことが許され、この世を建て上げ、安全保障と福祉を増やすようにと奨励されている。
『仮庵』は、家を建てる者が必要とあらば建築を止め、そこから立ち退く心構えを持つことを教えている。
放棄は支配権の秘訣である。
「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない」(伝道者の書5:10)
私たちは、自分の業績をたとえ束の間であっても、手放す度量を養うとき、達成の奴隷ではなく支配者になる。
物(主の被創造物)やこの世の栄達に執着することなく、一日一日感謝と主の御言葉とともに懸命に生きていきたいです。
「ものを買う人は持たない人のように」(コリント信徒への第一の手紙7:30) 
主の豊かな祝福と揺るぎない御守りが皆さまの上に常にありますように。

Y

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