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第234号 出エジプト記12:1-14

2015年、イエス・キリストの受難と甦りを覚えて

神は、この世が実践することのできない「愛」、犠牲の愛を、御子イエス・キリストを通して顕してくださった。キリストを愛する者たちが互いに愛しあうことによって、神は、愛が私たちにおいても完全になることを望んでおられる
主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会集に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい…あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内蔵も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。  
出エジプト記12:1-14
昨今、日本国内外のマスコミをにぎわしている事件は、自らの目標達成のため、あるいは、自暴自棄、衝動的選択に他人を巻き込むという類の自己中心の行動で、これはまさにイエス・キリストが世の終わりの兆候として挙げられた「愛の失われた」状態です。キリストは弟子たちに、
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(マタイ24:9-12)
と言われ、この世の終わりが、文明社会の期待とは裏腹に、最悪になることを預言されました。二千年前、十字架刑で亡くなられ、死んで葬られ、三日目に甦られ、天の父の御許に戻られたキリストが再びこの地上に戻ってこられる、すなわち、「再臨のとき」までは、地上に真の平和は訪れないのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とキリストは、ときが悪くても良くても最後までキリストに忠実であることを奨励、大いなる報酬を約束されました。

今年は三月から四月にかけて、二千年前キリストが全人類の罪からの救いのために、十字架上で「血の贖い」をしてくださった「受難週」を迎えます。イエス・キリストの死は、二千年前、パレスチナ(カナンの地)のガリラヤで新興宗教を起こした宗教家が、多くの貧しい人たちの支持を受け、勢力を広めようとしていたことに恐れをなした当時の宗教家たちにねたまれ、不幸にも死刑に追いやられたという類のものではありません。このような英雄譚は世界中至る所に残されており、多くの人々の感動を呼びますが、キリストが神の御旨を達成するために、すでに神が預言されていた通りを実践してくださったという点で、この世に数多くある英雄譚、偉人伝とは、全く違い、異色を放っているのです。
聖書』が証ししている、唯一真の神の預言にすでにそのご降誕の時期、場所、地上での宣教活動、十字架刑による死、埋葬、甦り、昇天、聖霊授与、再臨、地上における千年支配の詳細がすべて語られており、すでにその多くを成就された方は、ナザレ人イエス・キリストをおいて他にだれもいないのです。神が、このようにだれもその権威を否定できないような綿密さ、精巧さで、キリストを通して起こることを前もって明かされ、「聞く耳のあるすべての者」にメッセージを語ってくださったのは、ひとえに、「愛」によるものでした。神の家族の一員として人を創造された神は、
「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
に集約されている「愛」を、キリストを通して人類に顕してくださったのです。神の愛は不変です。

被造物にすぎない「人」の堕落、―「神の言葉」への不従順― をご存知だった神は、天地の創造の初めから、御子を、人を罪から贖う「救い主」として地上に送られることをご計画され、人の創造前にすでに天界で神に反逆していたサタンが最初の人類アダムとエバをだました直後に、神は、
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15、下線付加)
と、御子の受ける打ち傷を通して、逆説的にサタンを滅ぼすことを預言されたのでした。神のこの明確な預言によって、すでにこの時点で、人類の敵、この世の支配者サタンの滅びが確定的になったのです。御子キリストは、サタンを通して人類に入った「罪」に冒された肉の身体を完全に滅ぼすために、自ら人となってこの世に生まれてくださり、十字架上に呪いの肉の身体を釘づけて滅ぼしてくださいました。
預言者イザヤは、苦難のしもべキリストの理不尽な犠牲の死を、目撃者の立場から
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、各々、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた…彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを」
(イザヤ書53:4-8)
と、キリストのご降誕の七百年も前に預言しています。
イスラエルの民にとって「身代わり」という概念は決して新しいものではなく、モーセの律法の中には、羊、山羊、牛などの動物犠牲が人間の罪の代わりにささげられることが定められていました。イザヤのこの預言は、この動物犠牲による身代わりの原則が苦難のしもべキリストに適用され、その苦難と死とを通して、民の「そむきの罪」「咎」が究極的に赦され、反逆のゆえに絶たれていた民と神との関係が完全に取り戻されることを告げており、実際、神から離れ、道を失い、羊のように路頭にさ迷っていた人々はみな、この「しもべ」の生命を懸けた大変な犠牲、「しもべ」自身の血の「代価」によって救い出されたことを悟ることになるのです。救いは一方的に神の愛のわざ、恩寵なのです。

神は、死に至るまで従順であられた御子を、もはやサタンが影響を及ぼすことのできない「新創造の身体」で甦らせることによって、キリストの贖いの死を信じるすべての者に、肉体の死後、キリストと同じ「甦りの身体」で永遠の生命に生きる道を開いてくださいました。信じる者すべてに開かれたこの贖いの道が福音、キリストを通しての人類の救いです。使徒パウロは新約の奥義を、
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています…もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる…キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています」(ローマ人5:6-9)、
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(5:23)
と、説きました。
新約時代のこのキリストによる偉業の「ひな型」は、神の定められた「主の例祭」の最初、「過越の祭り」にすでに顕されていました。冒頭に引用した『出エジプト記』12章に記されているように、神は、イスラエルの宗教暦の最初の月、すなわち、ニサンの月の十日に、過越のいけにえのために子羊を選び、欠陥の有無を吟味した後、十四日にほふることを命じられました。十四日の夕暮れ午後三時にほふられた子羊の血は、イスラエルの民が住んでいた家々の入口の柱と鴨居に塗られ、その夜、エジプト中を行き巡った死の御使いの裁きを免れる「しるし」となりました。
入口に子羊の血が塗られた家々の中では、イスラエルの民はその夜、すなわち、ニサンの月の十五日、子羊のローストに、発酵させずに焼いた「種(イースト)を入れないパン」と苦菜で、大急ぎの食事を済まし、出エジプトに備えたのでした。イスラエルの民のエジプトでの隷属下からの解放、神の贖いのわざは、この出来事の四百三十年前にアブラハムに神が告げられた預言で、この出来事以降、イスラエルの民は毎年、「過越」を祝うことにより、人間の努力とは全く無縁な一方的な主の救い、解放を思い起こすことになったのでした。

キリストの受難週の足取りを追ってみますと、ニサンの月の十日、エルサレムにユダヤ人の王として入城されたキリストは、祭りのためエルサレムに集まってきたユダヤ人をはじめ多くの人々に目撃される中、「罪のない」人として、すなわち、欠陥のない過越の子羊として午後三時、十字架上で息をひき取られました。キリストのこの不当で残酷な死に象徴されたのは、流された無実な御子の血潮による、神の贖いのわざでした。ちょうど、最初の過越の夜、エジプト中で人間から獣に至るまですべての初子が殺されるという裁きが下った中、イスラエルの民は子羊の血によって神の裁きを免れ、生きることができたように、キリストの死が神の救いのわざであると信じ、キリストを人類の罪を贖ってくださった「救い主」として受け入れた者にはだれにでも、永遠の生命が約束されることになったのでした。
使徒パウロは、キリストと「過越の子羊」とを明確に関連づけ,
「新しい粉のかたまりのままでいるため、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」(コリント人第一5:7)
と、新約時代のキリスト信徒たちにあるべき姿を教え、奨励しました。
興味深いことに、ここでパウロが焦点を置いているのは、いけにえの子羊ではなく、「過越の食事」です。子羊がほふられた後始まる「過越の食事」にあずかるには、モーセの掟(神の御命令)に従えば、まず、家中のパン種、―全聖書で一貫して、罪、悪を象徴― の除去がなされる必要がありました。パウロは続く節で
「私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」
と呼びかけていますが、その真意は、「古いパン種…悪意と不正のパン種」が混じった状態では、「主の過越」を祝うことはできないということを訴えるためでした。
ここでパウロが語った「祭り」とは、おそらく、従来ユダヤ教徒たちが守ってきた「過越の食事」の踏襲ではなく、キリストが創案された「主の聖餐」のことで、パウロはキリスト者がいつも覚えていなければならない、キリストに従う者としての「愛」を実践する生き方に重要なメッセージを語ったのでした。