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Yさんの証し その7

Yさんの「信仰・改宗の告白」

ー少し前、Yさんから届けられた便りー

職場で知り合った方に、「仏教徒の家庭で育ったのに、なぜキリスト教徒になったのか、その経緯を知らせてほしい」とのメールを受けたYさんから、「夫と相談して、慎重に、かつ率直に、私の改宗の告白をメールで送ることにいたしました」と、知人に宛ててつづられた次のような、信仰告白が届きました。

私の父方の祖母は、明治の生まれで、戦時中、戦後生まれの父を除く五人の子どもを抱えて、戦火をくぐり抜けながら生きておりました。祖母は、姉が日蓮宗のお寺のお坊さんに嫁いだ縁で信仰に入ったそうです。
当時の日本はみな貧しく、病気になっても医者に診てもらうことができない人が大勢いました。中でも、家族からも見放され、行き場がなくなった脊髄カリエス(結核菌が原因)の患者さんたちがそのお寺に駆け込んできたそうです。お寺では信者さんたちが、このような人たちの身の回りの世話をし、餓えた人たちに食事を与え、個々人の所有するお金や食料の有無にかかわらず、それぞれが出来るかぎりを持ち寄り、喜んでご奉公しておられたそうです。マザーテレサの“Missionaries of Charity”のようなお寺だったのかもしれません。

日蓮宗と聞くと、創価学会や日蓮正宗など政治色の強い印象を持たれる方が多いのではないかと思いますが、 このお寺は、日蓮宗主流派がお金や権力闘争に心を奪われ、信者さん一人ひとりの悩み・苦しみからの救いをおろそかにしていることに心を痛め、主流から脱派してひっそりと活動を続けていたようです。
そのような反骨精神の持ち主であった分派の創始者(祖母の義兄より前の代のお坊さん)は、戦時中も戦争に反対し、題目を唱え、仏法を説いておりましたので、特高警察(いわゆる思想警察)に投獄され、拷問を受けることになりました。
ある日のこと、特高警察に捕まった思想犯の牢獄が空爆されました。拷問で衰弱しきっていたお坊さんは逃げることができません。
ところが、どういう天の配剤だったのかわかりませんが、同じ牢獄に投獄されていた外国人のキリスト教の牧師さんが彼を背負ってくださり、命からがら逃げだすことができたのでした。獄中にいた人たちの中で、この空爆で生き永らえたのはこの二人だけだったそうです。
父はよく、「苦しいときにはお題目を唱えなさい、仏様が必ず助けに来てくださるから」と、この話を繰り返し聞かせてくれましたが、幼い頃から疑い深いたちの私は、「もし、これが仏様ではなくて、実は牧師さんの信じている神様が助けてくれたのだったら、私の唱えているお題目は何のためなんだろう」と自問しながらも、そのまま月日は経っていきました。

小学校六年の春、松戸市から、島根県松江市へ転校しました。
とても優しくてひょうきんな女の子と友だちになりました。Hちゃんのお姉さんのMさんは重度の肢体不自由者(頭脳明晰)で、お母さまはHちゃんが三歳のときに病気で亡くなられました。
Hちゃんはお父さん、亡くなったお母さん方のおばあちゃんとの三人暮らしで、お姉さんは介護が二十四時間必要なため、施設に入っておられました。Hちゃんの家の供養寺が日蓮宗だったので、母と、Hちゃんのおばあちゃんは信心や供養の話をする仲だったようです。
あるとき、おばあちゃんは、Mさんが分娩時の医者の判断ミスで重度肢体不自由になったこと、実の娘が病気で孫娘二人を残して急逝してしまったことにふれ、「私が何ぞ悪いことでもしましたかいな・・・」と、ご自身はまっすぐ誠実に生きてこられたにもかかわらず、ご自分を責めて、涙を流しながら訴えられたそうです。

仏教では「因果応報」という言葉で、不可解・理不尽な世の中の出来事を解明することがしばしばあるそうです。「先祖の罰が子孫にかかる」、「前世の因縁・前世の行いの罪滅ぼし」など、原因があって結果がある、自業自得という発想です。
しかし、この言葉は、悪業の被害者たちに、それを行った人たちがいつか必ず罰せられる、正義/裁きが必ず下されるという、慰めを与える一方で、全く身に覚えのない不幸に突然見舞われた方々を、奈落の底に突き落とす言葉でもあるのです。
それは、世の中の不幸を、「因果応報」の一言で片づけると、「あんなことが起こるのは、あの人が昔悪いことをしていたに違いないからだ」、「あの人の先祖が何か悪いことをしたのだろう。表向きはいい人ぶっているけれど、影で悪いことをやっているのかも…」と、噂をされても反論の余地がないからです。

Hちゃんのおばあちゃんの心の苦しみを知ってから、私には、信心に対して悶々とした思いの日々が続きました。

高校一年の冬、また父の転勤で今度は和歌山から新宿区にある都立高校に転校しました。新しい高校の英語の長文読解が成美堂の教科書で『簡易版:旧約・新約聖書』でした。
両親は教育・書籍には絶対お金を惜しまない主義でしたが、他の宗教の本を読むことには賛成しませんでした。ですから、このとき思いもかけず、聖書を手にすることになったのです。
編入したのが一月だったため、内容はキリストの架刑とその三日後の復活の場面でした。 このとき英語の授業で初めて、イエス・キリストの苦しまれた理由を知りました。ただ、因果応報を信じてきた私には、自分の罪、いわば、キリストにとっては他人の罪を、このイエス・キリストという方に背負わせることがひどく理不尽で身勝手に思えました。「こんなことがはっきりした理由もなく正当化されていいはずがない。何か理由があるはずだ」と思い、大学生になってから、自分のお金で、日英訳付の“Good News Bible”を購入し、読み始めました。

国際法学者でもあったカール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』や『幸福論』(岩波文庫青帯)もその理解の手がかりになりました。
三浦綾子さんの『光あるうちに』や『道ありき』(新潮社文庫)は特に、多くの日本の若者にも読んでいただきたい本です。
英人であれば、C.S. Lewis (Oxford 大学の中世文学の教授。J.R.R. Tolkien 『指輪物語 the Lord of the Rings』や『The Hobbit』の著者と交流が深い)の『ナルニア国ものがたり(the Chronicles of Narnia)』。とりわけ、『ライオンと魔女(The Lion, The Witch and the Wardrobe) )は最近でも映画化されるほど、今でも人気です。
大戦中BBCラジオでも放送された“Mere Christianity” は特に一読の価値があるかと思います。

聖書を読み続けていたある日、新約聖書のヨハネの福音書9章に至りました。
そこは、イエスが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた箇所です。
弟子たちはイエスに尋ねました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?本人ですか。それとも両親ですか」。イエスはお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(1-3節)。そしてイエスは唾で土をこね、盲人の目に塗られ、シロアム(「遣わされた者」の意)の池に行って洗うように指示され、盲人がその通りにすると、目が開いたのでした。
とても興味深いのは、律法を厳格に守り、信心深さを自負していたファリサイ派のユダヤ人が示した反応です(9章34節)。
興味が湧いたときに、お読みいただければと思います。

私はこの言葉に、やっと心底から救われた気持ちになることができました。
私はこの後、イエス・キリストがすべての人々の罪を背負って死なれ、主によって甦られたことの意味を、旧約聖書の中に見出したのです。このとき初めて、旧約聖書を原文(ヘブライ語)で勉強したいと思いました。

二年前、West Sussex で六年間、つかず離れずお付き合いをしていたお隣りの老夫婦が、ひょんなことからユダヤ人のご夫妻だということがわかり、私に聖書ヘブライ語を教えてくださるようになりました。
それまでご夫妻は根強く残る反ユダヤ人感情の再燃などを恐れて、あまり御自身の身の上を周囲に話したがりませんでした。このことを、私の方では勝手に、私が移民なので関わりたくないのだろうと思っておりました。
毎週少しづつ、ユダヤ文化のこと、トーラー(旧約の最初の五書)、イスラエルの歴史のこと、彼らの祖父母の時代に英国に東欧から渡ってきたこと、ユダヤ系ゆえに子どもの頃に受けた差別のことなど、いろいろ話してくださいました。
少しずつヘブライ語の意味がわかるにつれ、日英訳の旧約聖書ではわからなかった原書ならではの発見も少しずつ出てきました(新約聖書はコイネーと呼ばれる標準古代ギリシャ語で書かれています)。
現在は、Peterboroughのユダヤ人のご婦人に教えていただいています。

これが私の改宗の告白です。
私が喜ぶのは愛であって いけにえではなく
神を知ることであって 焼きつくす捧げものではない。
ホセア書 6章6節
重苦しい内容になりました。最後まで読んでいただきありがとうございます。
「こういう人もいるのだな」ぐらいに思ってください。

皆さまの上に、主の見守りが豊かにありますように。

Y より


以上が、Yさんが知人に送られた「信仰・改宗の告白」です。
強調、下線部はYさんの原文のままです。
Yさんは小学生のころから、すでに真理に関心を持ち、求め続けていたのですね。
主は確かに、いろいろな手段で、求めるすべての者に答えてくださいます。
詩篇の著者が詠んだように、主は信頼に値する方です。

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
詩篇116:1-2

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