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アンナおばあさんの証し

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。  私たちの救いであられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による
聖書(新改訳:日本聖書刊行会) 詩篇68章19~20節


平成25年3月31日のイースター聖餐礼拝に与(あずか)り、復活の主のご臨在を主に感謝しました。この年になるまで私を担(にな)い助け、礼拝へと導いてくださる主に感謝します。恵みのときが与えられ、御名を崇(あが)めます。

私は二十七歳で浸礼(しんれい)によるバプテスマをうけ、四十四歳のクリスマスに夫と二人の娘とともにK教会へ転入会して、家族そろっての礼拝出席が始まりました。
私の罪のため、主は十字架にかかり尊い血潮で贖(あがな)ってくださいました。
今朝も、死に勝ち、甦(よみがえ)られた主は「平安あれ」とこの処(ところ)にいてくださいます。
「イエスこそ私の救い主」とただ信じた私を、主は今日まで、奇(くす)しき愛のご計画と一方的な憐(あわれ)みによって、全(すべ)てを赦(ゆる)し、豊かに導いてくださいました。

私は八十八歳になりましたが、この年になって「聖書を学びたい」という意欲が強くなりました。
聖書は神さまが私にくださった愛の手紙、私の大切な宝です。今までは聖書を漠然(ばくぜん)と読んでいましたが、ある解説書に出会って以来、聖書の深い意味がよくわかるようになりました。
それは、『一人で学べる聖書シリーズ』の本です。
この本を学ぶことにより、目が開かれました。旧約聖書に裏づけされた解説も楽しく読めます。
霊の目が開かれ、注解で引用されている旧約聖書の個所も楽しく読み進むことができます。
聖霊の働きでしょうか。目が弱く、悪い私ですのに、まったく不思議です。

また、聖書が歴史の書であることも新しい発見でした。
これからも許されるかぎり、霊の目、耳、心で聖霊に助けられながら、御言葉(みことば)の真理を知り、主の再臨と私の生涯の終りの日に備えたいと思います。また、すべての日本の人たちの「霊の覚醒」と「救い」のために執り成し(とりなし)の祈りを続けたいものです。
今、私は『黙示録』を学びたいと思っていますが、同じ『聖書シリーズ』から今年中に出版予定とのことで楽しみです。
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲(わし)のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ書40章30~31節)この御言葉はまさに私への励ましであり、力を受けます。

過ぐる1月29日は子どもたちとの合同礼拝がありました。神の前に静まり心ひとつにして礼拝を捧(ささ)げました。
「思い悩むな」との牧師の話を静かに聞く幼な子の真剣なまなざし、高らかに主を賛美する愛らしい姿に感動しました。「神の愛がいっぱい心に満たされていれば何も思い悩むことはない」と、幼な子と一緒に素直な魂で聞いた御言葉の光が心の中に満ちて霊肉ともにいやされました。この子どもたちや青年たちが心身ともに健やかに成長し、若い日に創造主(つくりぬし)を覚え、救われますように。これは私の祈りです。 

夫が主の御許(みもと)に召されて九年後の2008年、私は息子の家族と同居しました。
私と私の家とは、主に仕える」(旧約聖書ヨシュア記24章15節)
今後どんな時代になろうと、息子たち一家がイエス・キリストの父なる神を畏(おそ)れ、信仰継承することができますように、これからも祈りつづけてまいります。
一年前、息子が退職しましてから、家族とのコミュニケーションがスムーズになって、「すべての事、相働きて益とされました。神の備えのときが待てなくて主を悲しませたこともありました。エペソ書4章の御言葉にさとされ、罪から守られましたが、すべてのカギは御言葉の中にあり感謝です。
我が家のお手洗いには亡き父の懐(なつ)かしい筆跡でいつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章16~18節)の色紙がかけてあります。父が召天してもう三十年余りになりますが、信仰によって今もなお、語りつづけ、軌道修正をしてもらっています。
ハレルヤ、感謝です。

私は最近耳が遠くご迷惑をおかけしています。また、のどを痛めて讃美歌が歌えなくて少々淋(さび)しいですが、「あなたへの恵みは十分です」との主のささやきが聞こえます。頭の反応も弱くすべてが緩慢(かんまん)で物忘れも多くなりました。教会の皆さまをはじめ、家族もこんな私を大きな愛で優しく助けてくださるので、うれしく感謝でいっぱいです。
十年も昔、“人生の秋”の随想を読みましたが、今回あらためて残り少ない人生をキリストに在(あ)って心若く楽しく老いたいとの思いを新たにしました。試練もプレゼントとして謙虚(けんきょ)に受けたいものです。「老いの重荷は神の賜物」。何もできなくて人の世話になるばかりの身になっても神は最後に祈りと執り成し(とりなし)の祈りを最上の業(わざ)として残してくださっている。
何という恵みでしょうか!
  「天の故郷(ふるさと)を知らず、失われゆくものへの愛惜(あいせき)に心奪われるのみならば、老いはつぶやきの多い孤独な人生の夕暮れとなる」と示唆されていますが、私たち信じる者には天の故郷(ふるさと)が備えられ、永遠の生命(いのち)と復活の信仰が与えられています。やがて、御国(みくに)にて復活の主にお会いし、愛する者に再会する喜びと希望に心がはずみます。

私の一度しかない人生で愛の神は使徒言行録16章31節の御言葉主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われますを我が家に成就させ、家族全員を救ってくださいました。カナダとロンドンには七歳と三歳の曾孫(ひまご)まで与えられて主を賛美しています。
罪人の頭(かしら)でしかない私の一生は神さまの奇跡の連続で、主は平安と祝福あふれる生活で私を満ち足らせてくださいました。信仰がなくては神に喜ばれません。子どもたち、孫たち、ひ孫たちが主を賛美する生活がいついつまでも続きますように、聖霊の導きと助けを祈ります。
 
私の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて」(コリント人への手紙第二4章16節)、すべてを主に委(ゆだ)ね、与えられた使命を少しでも果たして御国へ帰りたいと願います。これまでの私の人生のすべては、イエス・キリストの「とりなし」と、主にある兄弟姉妹ならびに天上にある家族の執り成しの祈りに主が豊かに応(こた)えてくださったことによる主からの賜物と信じ、主にご栄光を帰したいと思います。
皆さま、ありがとうございました。
【2013年4月10日 10:30 am K教会にて】