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第211号:エレミヤ書47章,エゼキエル書25:15-17:パ レスチナ博物館、定礎式 ―「パレスチナ」、「パレスチナ人」、聖書での位置づけ―

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パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。主はこう仰せられる。「見よ。北から水が上って来て、あふれる流れとなり、地と、それに満ちるもの、町とその住民とにあふれかかる。人々は泣き叫び、地の住民はみな泣きわめく。荒馬のひづめの音、戦車の響き、車輪の騒音のため、父たちは気力を失って、子らを顧みない。
すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからだ。その日には、ツロとシドンを、生き残って助ける者もみな、断ち滅ぼされる。主が、カフトルの島に残っているペリシテ人も破滅させるからだ。ガザは頭をそられ、アシュケロンは滅びうせた。アナク人の残りの者よ。いつまで、あなたは身を傷つけるのか。」「ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」どうして、おまえは休めよう。主が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸― そこに剣を向けられたのだ。
エレミヤ書47章
神である主はこう仰せられる。ペリシテ人は、復讐を企て、心の底からあざけって、ひどい復讐をし、いつまでも敵意をもって滅ぼそうとした。それゆえ神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、ペリシテ人に手を伸ばし、 ケレテ人を断ち滅ぼし、海辺の残った者を消え失せさせる。わたしは憤って彼らを責め、ひどい復讐をする。彼らは、わたしが彼らに復讐するとき、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル書25:15-17

四月半ばに、新設の「パレスチナ博物館」の定礎式が執り行われたことが報道されました。パレスチナ人の二百年に亘る歴史を公開するのが目的で、1917年にオスマントルコの支配が終わって以降のパレスチナにおけるアラブ人に関する諸出来事に焦点が当てられるようです。聖地に対する太古からの所有権を主張しているにもかかわらず、パレスチナ人の歴史を二百年以上にさかのぼることは難しく、パレスチナ人の起源に関しては、パレスチナ国家内部でも大きな見解の相違があることが指導者たちへのこれまでのインタビューから明らかになっています。パレスチナ解放機構(PLO)の故ヤセル・アラファート前議長はパレスチナ人が「ペリシテ人」の後継者であることを頻繁に強調し、パレスチナの前政治家アブー・サイードは、パレスチナ人は「カナン人」の子孫であるといい、イスラエルのイスラム運動の副会長カマル・ハティーブは、パレスチナ人は古代エルサレムの住民であった「エブス人」の系図にさかのぼると語ったのでした。おそらく一番正直な答えは、クネセト(イスラエル国会)の前議員でアラブ系イスラエル人のアズミー・ビシャーフがイスラエルのテレビ放送で語った「パレスチナ人という民族は決して存在したことはなく、広域からのアラブ民族にすぎない」でしょう。この後、ビシャーフはレバノンのイスラム教シーア派原理主義組織のヒズボラに協力したためにイスラエルから亡命しなければならなかったようですが、そのメッセージはビデオに収録され残っているのです。

また、一般のパレスチナ人の多くも、自分たちがサウジアラビアや北アフリカのアラブ諸国から来たことを告白しているようです。しかしたとえ歴史的にパレスチナ人が一民族として証明されなくても、現にパレスチナには多くのアラブ人難民が住んでいるわけで、マスコミではほとんど語られていないようですが、イスラエル政府はこれらの人々の福祉のためパレスチナ国家との和平交渉に前向き、積極的な姿勢をとっているのです。古来、真の神ヤーウェの証人としてイスラエルには在留異国人に対する愛と配慮の掟が課され、実践が奨励されてきましたが、人生の前半期を、ねたみからの迫害、共同体からの追放、逃亡、放浪の苦難を強いられた神の寵愛の王ダビデの言葉に、「神の民イスラエルの残りの者」が歩むべき道が預言的に反映されているかのようです。「暴虐な証人どもが立ち、私の知らないことを私に問う。彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。しかし、私は―、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ」(詩篇35:11-14)。異邦人であっても神の約束の地に平和裏に住むことを希望する者たちには、イスラエルの主権下での完全な市民権と居住の安全がモーセの掟で保障されており、その実践はエゼキエル書47:21-23ほか聖書の至る所で、神の民への覚えとなっているのです。

今日マスコミで用いられている用語「パレスチナ人」に関して、聖書はどのように語っているのでしょうか。「パレスチナ人」という概念は、故ヤセル・アラファート前議長、PLO、アラブ連盟の創作で、1967年にアラブ人がイスラエルに仕掛け、不面目な大敗を喫した六日戦争(第三次中東戦争)の後、アラブ諸国や世界中のマスコミで広く用いられるようになったのでした。この用語は、言語はアラブ語、宗教はイスラム教、文化を近隣の二十二のアラブ諸国と共有する人々を指し、歴史的には、ユダヤ人をも含め聖地に住むすべての人々に適用されてきた言葉で、特定の民族、国家を指すものではなく、一世紀にローマが造り出した、聖地に住むユダヤ人に対する軽蔑的別称でした。この精神はヤーウェのイスラエルに対する永久の契約を否定し、教会がイスラエルにとって替えられたことを主張するキリスト教神学の「置換神学」に、今日も息づいているのです。

「パレスチナ」は移住の意“パラシュ”に由来する“ペレシェテ(ペリシテ)”からの派生語でした。ペリシテ人はアラブ人でもセム族でもなく、小アジアに由来する古代ギリシャ人で、パレスチナは初期には、ヘブル人と共存したこの好戦的な民族ペリシテ人の地、すなわち、「カナンの地」の特に地中海沿岸の南西部一帯(今日のガザ地区)のことでした。2000BCEごろ、イスラエルの族長アブラハムがメソポタミアのカルデヤ人のウルからカナンの地に入ったとき、エモリ人とカナン人がその地を支配していました。その後イスラエルの民は、四百三十年のエジプトでの滞在を経て、出エジプトの出来事の後カナンの地に定住することになりましたが、神がアブラハムに約束された地は、ヘブル語(旧約)聖書では“エレッツイスラエル(イスラエルの地)”、あるいは「生ける者の地」(エゼキエル書 32:23)として言及されており、パレスチナという用語は用いられていません。民数記34章には「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地に入るとき、あなたがたの相続となる国、カナンの地の境界は次のとおりである……」(下線付加)と、約束の地の東西南北の境界、―南はエジプト川とカデシュ・バルネアから北はヘルモン山のふもとまで― の詳細が記されています。古代エドム、モアブ、アモンはイスラエルの一部の部族とともにヨルダン川東岸の地を所有しましたが、時代の流れとともに太古のこととして消え去り、その後、1923年に委任統治国となった英国がヨルダン川東岸(トランスヨルダン)を分割するまでは、その地を所有する国家はありませんでした。ヨシュア記に詳細に記されているようにイスラエルのカナン征服後、カナン全土が「イスラエルの地」となり、マタイ2:20やヘブル人11:9の「約束された地」という表記から新約時代にも古来の用語が用いられていたことが分かります。

ところが、63BCEにローマ帝国が“エレッツ イスラエル”を征服し、70CEにローマの将軍タイタスがエルサレムを神殿もろとも破壊して以降、神のイスラエルへの約束の聖地はローマによって、イスラエルの終生の敵ペリシテに因んで“ペレシェテ”、「パレスチナ」と改名されたのです。この名が公式に用いられるようになったのは、138CEにローマの属州ユダヤで起きた謀反バル・コクバの乱が平定された後でした。638CEに、アラブ人イスラム教徒のカリフがビザンチン帝国からパレスチナを奪い、アラブ・イスラム帝国としましたが、ギリシャ・ローマ風の名称パレスチナは「ファラスティン」とアラブ風の発音に変えられただけで、そのまま残りました。このようにローマは、エルサレムの名すら「アエリア・カピトリナ」と改名し、聖書が語る約束の地からイスラエルの記憶を根絶し、“エレッツイスラエル”ではなく、今日世界中のマスコミや反イスラエル、反ユダヤ主義者たちが好んで使う「パレスチナ」が定着するようになったのです。

冒頭に引用した箇所は、ペリシテ、また、その同盟国であったツロとシドンに対するエレミヤの預言です。ペリシテに関しては、アモス書1:6-8やゼパニヤ書2:4-7にも「わたしはおまえを消し去って、住む者がいないようにする」のように厳しい預言が記されています。エジプトが「この世」のひな型であるなら、神の民イスラエルを終生敵に回してきたペリシテは「この世の回心しない者たち」のひな型であるとよく言われます。「パロがまだガザを打たないうち」という記述から、エレミヤはエジプト王ネコがペリシテのガザを攻撃することを預言したようです。「北から水が上って来て、あふれる流れとなり…あふれかかる」は瞬時に襲う洪水に象徴された軍事攻撃の描写です。当時ちょうどユダ王朝がエジプトに加担する政策を取っていたように、フェニキア人のツロ、シドンもエジプト寄りの政策を取っており、両国とも明らかにペリシテと同盟を結んでいました。ですからペリシテが敗北すれば同盟下にある国々にもその波紋は及び、同じ運命に陥ることは目に見えています。エジプト語の「カフトルの島」とは、ペリシテ人の出生地で地中海のクレタ島のことですが、ペリシテ人のルーツをエジプトにたどる学者も多いようです。アシュケロン、エクロン、アシュドデ、ガザ、ガドはペリシテの主要五大都市で、今日も中東問題でよく登場する名です。このエレミヤの預言や冒頭に挙げたエゼキエルの預言はヤーウェと神の民に反逆するこれらの国々、町々の究極的な滅びを告げているのです。

「ガザは喪に服して頭をそり、アシュケロンは黙らされるであろう」(NIV、下線付加)はいずれも深い哀悼を表わす表現で、強さの象徴である髪を「そる」には荒廃が象徴され、「(ガザの)平地の残りの者よ、いつまで身を傷つけるのか」(NIV、邦訳では「平地」が「アナク人」)には、長く続く悲しみの期間が示唆されています。このネブカデネザルによるアシュケロン攻撃の預言は604BCEに成就したのでした。この聖句は邦訳では『七十人訳ギリシャ語聖書』にならって「アナク人」となっていますが、言及されている場所は今日の「ガザ地区」に相当します。アナク人は有史前にはヘブロンの近くに住んでいたのが、後にペリシテ人たちの間に住むようになったずばぬけて背の高い民で、ダビデの時代、ペリシテ人はこのアナク人の巨人ゴリヤテを用いてイスラエルを撲滅しようとしたのでした。しかしサムエル記第一17章には、イスラエルの神を侮辱する者に憤り、神の名のために敢然とゴリヤテを迎え討ったダビデの信仰とその信仰に神が奇蹟的な勝利で答えてくださったことが記されています。パレスチナ問題でますます孤立化しつつあるイスラエルでは昨今、「ユダヤ人とイスラエル国家の中心的価値観の基盤となる聖書の学びの重要さ」への覚醒が起こり、今年三月からクネセトで毎週定期的な聖書の学びが始まったといいます。神の選びの民イスラエルのヤーウェへの立ち返り、証人としての召名への目覚めは、間違いなくメシヤの時代が近づいていることを裏づけているようです。