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第205回:ヨブ記1:1-6,42:10-17:ヨブ記に秘められた預言的メッセージ

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ヘブル人ヨブの人生には、まさに神の選び、約束の民でありがなら、この世から理解されず不当な迫害を受け、繁栄、栄光を剥奪され、奴隷以下、獣同然に扱われ、絶望の暗やみに突き放されるイスラエルの民の苦難の歴史と、その後の復興が象徴されている。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き……こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのためにそれぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「わたしの息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた……
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された……主はヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭……また、息子七人、娘三人を持った……この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。
ヨブ記1:1-6、……42:10-17

聖書の中で最古の書とみなされている『ヨブ記』は箴言、伝道の書、雅歌と詩篇の一部に並び、古代イスラエルの知恵の文学の範疇に入れられており、秘められたメッセージが組み入れられた見事な文学的枠組みで、構成されています。謎めいた格言(たとえ)を愛したイスラエルの王ソロモンは、『箴言』の冒頭で「知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである」とその書の目的が、人々に知恵ある者のすべての格言を理解する鍵を与えることであると明記しています。語られたたとえ、なぞを理解することによって、たとえに託された寓意を悟り、預言的メッセージを得ることは神ご自身が用いられた方法(一例:エゼキエル書 17:2-10)でした。神がいつもだれにでも分かる言葉で、御旨を顕わされるのでないことは、聖書の多くの箇所から明らかですし、キリストも「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」(マタイ13:13)と、神の御旨を求め、御言葉に耳を傾ける者は神の奥義を知るにふさわしいが、聞く耳のない者は心が神に向いていないので、たとえを聞いても理解できないままに残されることを明白にされました。ヨブ記は、人間史の背後に神に挑戦するサタンの働きがあることを明らかにした非常にユニークな書であるだけでなく、創造に関して驚くほど造詣が深く、少なくとも十五のはるか後世の科学的発見に言及している書ですが、今月は、ヨブ記全書に織り込まれた預言的メッセージを考察することにしましょう。

「迫害された、憎まれた」という意のヨブは、「ウツの地」に住む「東の人々の中で一番の富豪」で、神の御前に義とみなされた信仰の人でした。ヨブの生きた時代、住んだ場所、出自は、用いられている用語の特徴、用いられている神の名、言及されている事がら、聖書の他の聖句を考証することでかなり絞られ、モーセに律法が与えられる前の、二百歳近くの長寿が普通であったイスラエルの族長時代に生きた人であったこと、エジプトとペリシテとの間のどこかの地に住んだこと、書中に族長たちによく知られていた神の名「シャダイ」が独占的に多く用いられていることから、ヘブル人であったとみなすことができます。時代考証で鍵となる事がらは、ヨブ記には十以上記されており、その一つ、族長時代に関わりの深い個人名や場所が登場することだけでも、多くの裏づけができます。「ヨブ」は 2000BCEごろ一般的であったセム系部族の名で、創世記 46:13の族長イッサカルの息子であったとすれば、ヤコブとともに、エジプトに移住した七十人の一人であったことになり、おそらく、エジプトの三角州ゴシェンの地の「東」に住み、富み栄えたヘブル人という筋書きが描かれます。ヘブル人の聖書の正典に選ばれた『ヨブ記』の主人公が異邦人であったということはまず考えられず、ヨブが一家の祭司としての役割を果たしていること、いけにえにを捧げているが律法やイスラエルの民への言及はないこと、他の神々に言及されていないこと、娘たちにも息子同様の遺産の相続権が認められていること、富が家畜の数ではかられていることから、イスラエルの民がヤコブ率いる一大家族から一国家として成長する黎明期の、パロに招へいされてのエジプト移住直後の時代と推測することは決して無理ではないようです。ヨブ記に登場するシェバ人やカルデヤ人は、国家形成前の遊牧民族としての民で、当時、バビロンとエジプトとの間を交易のために定期的に往来したものでした。エジプト北東部は、メソポタミアからアフリカへの隊商の通商路のちょうど中間地点で、2000BCEごろには、エジプトの三角州にはバビロンの地から多くのアラム人部族が移り住んでいたので、ヨブ記にアラム語が反映されている理由をも裏づけることになります。

神の大いなる祝福に与って幸福の絶頂にあったヨブが、ある日突然、財産、家畜、家屋、家族はじめ、所有していたすべてを奪われ、無一文になったうえ、身体をもひどい皮膚病で犯されるという、予想だにしない災いに見舞われるところからヨブ記は始まります。神の人として評判高く、近隣、遠方の者たちからも慕われ、敬われていたヨブが一転して、その名の通り「憎まれ、迫害される」者におとしめられたのです。来る日も来る日も土器のかけらで自分の身体をかき、灰の中を転げまわって、炎症を起こしてうずく傷口の痛みを和らげようとあがいている、哀れで、惨めな、絶望的なヨブの姿に、一番身近なところにいた妻は我慢できず「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と捨てぜりふを吐いて去っていきます。「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」と穏やかに答えたヨブは、逆境にあっても信仰を失わなかったのでした。続いて、ヨブの苦難を聞き知った友三人がヨブを慰めようと遠方からやって来ます。見分けられないほどに変わり果てたヨブに、三人は上着を引き裂き、ちりをかぶり、深い哀悼の意を表し、最初の七日七夜はヨブの身になって、悲しみをともにしたのでした。しかし、苦闘が長引き、ヨブ自身の絶望状態が高じるにつれ、当初見せた三人の感情移入は、ヨブの苦境、苦しみの真相を暴き、分析し、理由づけをする方向へと移っていきます。彼らの到達した結論はヨブには隠れた罪があり、それがゆえに裁かれている、ヨブは偽善者だということでした。ヨブの突然の苦境が、天界の神の御許で「非難する者」サタンが神に挑戦し、許可を得て引き起こしたものであったことを知らないヨブの友たちは、ヨブを慰めるつもりが、神を仰がず、この世の常識、自分の経験、知恵に頼ったため、ヨブの妻同様、サタンの使いとして用いられてしまったのでした。ヨブの苦しみの背後には、ヨブ自身の罪以上の「罪の権化」サタンの介在があり、神意の下でそれが許されたのでしたが、そのことを理解することのできた者は、ヨブ自身をも含めてだれもいなかったのでした。

最後に、「私の神はその方」という意のエリフが現れて、ヨブが自分をあくまでも正しいと主張することは間違いであり、神を訴えているも同然であると非難し、同時に、全能者の懲らしめによる苦しみの意義を強調した後、仲裁者に基づく贖いの可能性、執り成しによる復興の希望へと話を進めたのでした。エリフは、三人の友たちには敵愾心を燃やしていたヨブが一転して耳を傾ける中、「魂の健康が取り戻され、心癒され、神との関係が正された人は内なる喜びに満たされ、自らに起こった神の驚くべきわざを他人に伝える証人へと変えられる」と、救いの見通しを語ったのでした。創造者なる遠大な神の御前に悔い改めを迫り、「神の奇しいみわざを、じっと考えよ」とのエリフの言葉に沈思していたヨブにそのとき、神が突然御姿を顕わされます。全部で七十七問の、科学の三十以上の領域に亘る神の質問攻めにあい、悟り尽くすことのできない、創造の神秘、摂理、永久の支配を垣間見させられたヨブは神との出会い(神々しい光)にさらけ出され、全面的に自分の罪を認めたのでした。

このヨブの出来事が書かれ、広められたのが、エジプトでイスラエルの民がヨセフを知らないパロの支配下で迫害されるようになった頃であったとすれば、知恵の文学に織り込まれた預言的メッセージの重要な意味が浮き彫りにされてきます。ヘブル人ヨブの人生には、まさに神の選び、約束の民でありながら、この世から理解されず不当な迫害を受け、繁栄、栄光を剥奪され、奴隷以下、獣同然に扱われ、絶望の暗闇に突き放されるイスラエルの民の苦難の歴史とその後の復興が象徴されているとみなすことができるからです。イスラエルにはいつの時代も最後まで神の約束を信じる信仰の人と、神を捨てた肉の人がいたように、ヨブの妻に象徴されているのは後者です。ヨブの苦難を知り、駆けつけた三人の友には、ノアの洪水後、セム、ハム、ヤペテから派生した全人類が象徴されており、まさに神の祝福を受け、義に生きようとする神の民のあら探しをし、告発するこの世を代表しています。実際ユダヤ人は歴史上、今日に至るまで人類の文明進化に最大の貢献をしてきたかけがえのない民族であるにもかかわらず、事あるごとに理不尽にこの世から疎外され、全諸国民から癌のように、人類から抹消されなければならない存在であるかのように取り扱われてきたのでした。最後にヨブを戒め、同時に、贖い主による救いの新たな光を投げかけた若いエリフに象徴されるのは、ヤーウェ信仰の年月に比べれば年の浅いキリスト信仰に生きる教会です。もう救いようがなく、絶望的に見えたヨブが、悔い改めと同時に神ご自身の出現に直面し、以前の二倍の祝福に復興させられたことには、ゼカリヤ書 12 章に感動的に描かれている、再臨のキリストを仰ぎ見て一瞬のうちに心底から悔い改め、千年支配の神の御国に入れられ、キリスト信仰に生きるようになるイスラエルの残りの者の姿、究極的に父なる神と和解し、太古の昔、神がアブラハムはじめ族長たちに約束された「聖地でのユダヤ人メシヤによる王国の樹立」が反映されています。「ヨブの前の半生」が今日のヤーウェ信仰に生きるユダヤ人の姿であるなら、二倍の祝福に与る「後の半生」には、ユダヤ人の残りの者が迎え入れられるキリストの千年支配が象徴されているのです。最後に加えられたヨブの子たちの数が二倍になっていないのには、重要な意味があります。ヨブ記冒頭の、突如、生命を奪われた子たちが甦って千年支配の御国に入るとすれば、後に加えられた子たちと合わせて二倍になることから、来るべき御国が、甦った聖徒とこの世の身体で生きる者との共存の王国であることを示唆しているからです。また義人の執り成しにこの世の人たちを救う力があることも、最終的に三人の友が赦されたことに反映されているのです。このように、ヨブ記は、近未来的には出エジプト前のヘブル人の、究極的には終末末期のユダヤ人の救いの預言的メッセージになっているのです。